My Verses / Shostakovich / Serov

ショスタコーヴィチ Dmitri Shostakovich(1906-1975)
マリーナ・ツヴェターエワの6つの詩  
Six Poems by Marina Tsvetayeva Op.143 (1973)
1 Verses  2 Tenderness  3 Hamlet  4 Poet  5 Drum  6 Akhmatova
I  私の詩たち  Moyi stihi (My Verses)
 data & others 
 tube1  : Lyubov Sokolova, mezzo-soprano, Yuri Serov, piano www.youtube.com

 tube2  : Araceli Hernández Fernández del Campo, mezzosoprano , José Miramontes Zapata, director , Orquesta Sinfónica de San Luis Potosí  www.youtube.com

 tube3  : Mezzo: Tamara Sinjawskaja, Conductor: Michail Jurowski, Cologne Radio Symphony Orchestra  www.youtube.com

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Moyim stiham, napisannim tak rano,

かなり早い時期に書かれた私の詩たち

Shto i ne znala ya, shto ya - poet,

まだ詩人だとも思っていなかった

Sorvavshimsia, kak brizgi iz fontana,

噴水から跳ね出た水滴のように

Kak iskri iz raket,

ロケットの火花のようにほとばしり出た詩

 

 

Vorvavshimsia, kak malen'kiye cherti,

小さい悪魔が素早く

F sviatilische, gde son i fimiam,

まどろみと香水が行き渡る神聖な場所に駆け込んだような詩

Moyim stiham o yunosti i smerti,

若さと死の詩

—— Nechitannim stiham! ——

—— 決して読まれなかった詩 ——

 

 

Razbrosannim v pili po magazinam

本屋の埃の中に散らばって

(Gde ih nikto ne bral i ne beriot!),

(そこでは誰もそれを買わなかった)

Moim stiham, kak dragotsennim vinam,

私の詩たち、ヴィンテージ・ワインのように

Nastanet soy cheriod!

注目される時がやってくる

(Serov のCD解説の英訳から)

 

 

 

 

 

 


ツヴェターエワも困難な人生を歩んだようだ
ロシアを出てソビエトに戻り自殺している
夫は処刑され、息子は戦死、娘は投獄されている
どの時代、どの地域、政治体制に生まれるかは選べない
与えられた状況を最善に変えていく柔軟な視点の転換や意志を持ちたいと思う

詩の意味がよくわからないので、ツヴェターエワを調べた。
運よく前田和泉氏の「マリーナ・ツヴェターエワの詩学ー境界線を超える声ー」を見つけ読ませていただいた。
最初は「いいや、太鼓が連打したのだ」のヒントがあればいいなと部分的に読むつもりだった。
読み始めるとすぐに引き込まれた。

論文は前田氏のツヴェターエワ氏への深い理解と愛情が感じられ、300ページを超える文章に離れられなくなった。
修辞法やロシア語、韻律など専門的なところは分からないが、詩人の人となり、生涯を辿ることができた。
ショスタコーヴィチの採り上げた6つの詩のうち「私の詩たち」の断片以外は直接採り上げられていなかった。 

Marina Tsvetaeva (1892-1941) 

マリーナ・ツヴェターエワは思いの全てを言葉で表現し尽くそうした。
様々な新しい試みをして言葉そして詩の限界を広げようとした。
コンマ、コロン、括弧、ダッシュ、複合語、造語、途中改行など様々だ。 

ロシア語と詩の深い知識、歴史、文化、詩人の生い立ち、背景などの予備知識がなければ詩の理解は到底無理だとわかった。
しかし、多くの詩の例を読むにつれこの詩人のスタイルに慣れてきた。

ツヴェターエワは若くして既にイタリア語、ドイツ語、フランス語を習得していた。
1912年に結婚した夫のセルゲイ・エフロンは反革命派として従軍し、消息が途絶える。
その間、1920年次女ベリーナを亡くす。

1922年モスクワからベルリンを経て、消息がやっとわかった夫の亡命先のプラハへ、その後1925年パリへ移っている。
パリでは亡命ロシア文学界有力者を批判し孤立を深める。
大恐慌の時代、夫エフロンは結核療養、失業、ツヴェターエワの寄稿先は廃刊、友人の援助に頼った。

夫エフロンは西側の生活に幻滅したのか今度は共産主義の理想に魅せられ、祖国帰還同盟の諜報活動に加わる。
1938年、当時母と対立していた長女のアリアードナがソ連に帰国。

あるロシアの諜報部員がソ連から逃亡し、ローザンヌで射殺される事件が起こる。
エフロンが捜査線上に浮かび、姿を消す。
亡命ロシア人社会で夫がソ連に協力していたことで憎悪、侮蔑を受け、さらに孤立困窮。

1938年夫と娘を追って長男ゲオルギーとモスクワへ帰国。
しかし夫エフロンは口封じのためか逮捕。
ロシア社会では、亡命帰り、夫は獄中ということでここでも孤立困窮、食糧も事欠き絶望と孤独の中モスクワ近郊を転々とする。

1941年ナチスがモスクワに迫るとタタール自治共和国へと逃れていくが8月31日エラブカで自殺。

同年、夫エフロン処刑される。
1944年長男ゲオルギー、ベラルーシで戦死とされる。

1939年長女アリアドーナ、スパイ容疑で逮捕。8年間の強制労働。
1947年釈放。
1949年再逮捕。無期懲役。クラスノヤルスクに流刑。
1955年証拠不十分で名誉回復。
1975年タルーサで病死。

娘アリアドーナは母の死を知ると矢継ぎ早に手紙を出して母の原稿の散逸を防ごうとした。
1961年詩集出版。

「私の詩たち」で示されたように詩作への情熱と意欲を常に持っていた。
様々な人を愛し、情熱的な人だったようだ。
そして自分の心に正直だった。
夫エフロンや娘アリアドーナにすれば複雑だったろう。

第一次大戦ロシア革命大恐慌、第二次大戦と困難な時代に困難な状況を生き、最終的に自殺。
アリアドーナがいなければ彼女の詩は歴史の中に埋没していた可能性が高い。

ショスタコーヴィチは1970年に作曲されたティーシチェンコの『ツヴェターエワの詩による三つの歌曲』を聴いたのがきっかけで彼女の詩を知ったと工藤庸介氏の「ショスタコーヴィチ全作品解説」にある。
その後、ツヴェターエワの自殺を題材としたエフトゥシェーンコの詩『エラブカの釘』に曲をつけ始めたが未完に終わったとある。

この『マリーナ・ツヴェターエワの6つの詩 Op.143』は1973年の作曲だからアリアドーナと会えたかもしれない。
千葉潤氏の「ショスタコーヴィチ」にはこの歌曲集を作曲した1973年にツヴェターエワの妹アナスタシアと知り合い、回想録を贈られたとあった。

このように彼女の人生、才能、家族、時代、スターリン、政治体制、疎外、ショスタコーヴィチ、と想いを馳せていくと非常に感慨深く、何か祈りを捧げたくなる。
そしてまたこの歌曲集が特別なものとなった。
改めて前田和泉氏に感謝申し上げる。

 wiki マリーナ・ツヴェターエワ 
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diary 2023-3-22 (水) 月齢0.5 晴れ・曇り
図書館に行く。
結構人が多い。
とても暖かく、桜は満開に近い。
明日からはあいにくの雨らしい。
ショスタコーヴィチ、ツヴェターエワの6つの詩 1 私の詩たち をアップ。
自分の若い頃の詩を取り上げているが音楽はその後の苦労を表すかのように重苦しい。