ショスタコーヴィチ ミケランジェロ組曲 1 真理 (2) Michelangelo Suite Truth / Shostakovich

ショスタコーヴィチ Dmitri Shostakovich(1906-1975)

ミケランジェロ組曲 1 真理 Suite on Words by Michelangelo, Op. 145a: 1 Truth (1974)

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ミケランジェロ組曲 1 真理 Suite on Words by Michelangelo, Op. 145a: 1 Truth

Jest' istiny v rechenjah stariny, 

多くの古いことわざの中には真理がある

I vot ona: kto mozhet, tot ne hochet.

これもその一つ、何かをなすことのできる人はそれをしたがらないというものだ

Ty n'al, gospod', tomu, kto lozh strekochet, 

法王様、あなたは偽りの作り話をお信じになり

I boltuny toboj nagrazhdeny;

軽口を叩く小さな者に報酬をお授けになる

 

 

Ja zh toj sluga: moi trudy dany tebe, 

私はあなたのしもべ、私の苦労はあなたに捧げられております

Kak solntsu luch, - hot' i prorochit tvoj gnev 

太陽とその光線のように、たとえあなたが

Vs'o to, chto pyl moj sdelat' prochit,

私のしたいことすべてをお気に召さなくとも

I vs'o moi staranja ne nuzhny.

そして私の努力がすべて無駄であろうとも

 

 

Ja dumal, chto vozm'ot tvojo velichje

あなたの偉大さが私を引き立ててくださることを願っておりました

Men'a k sebe ne ehom d'a palat, 

空しいこだまとしてではなく

A lezviem suda i girej gneva.

正義の剣、怒りの重しとして

 

 

No jest' k zemnym zaslugam bezrazlichje

しかし天は地上での功績などには無関心

Na nebesah - i zhdat' ot nih nagrad, - 

報酬を期待することは無駄なこと

Chto ozhidat' plodov s suhogo dreva.

枯れ木から実を求めるようなものなのだ

(ネステレンコ、セロフ、ユロフスキ、ディスカウ、レイフェルクス他の解説の英訳による)

 

ミケランジェロについてまとめてみたいと思うがなかなかまとまらない。日本語訳のミケランジェロの詩集が出版されていないのか、手に入らなくてミケランジェロの人物像がつかめないのが理由の一つだ。同時代のコンディヴィによる伝記の後半には詩と手紙が載っているが、手紙が中心で手紙にある詩や内容に関係ある詩が参考として載っているに過ぎない。杉浦明平氏訳の「ミケランジェロの手紙」を調べても詩はまとまって載っていない。600ページに及ぶ大著を読み込むのも大変。John Fredrick Nims氏のThe Complete Poems of Michelangeloを取り寄せたが全部を読み解くにはさらに時間がかかる。須賀敦子氏の「ミケランジェロの詩と手紙」は30ページほどですぐ読めたが、9編の詩と5つの手紙しか載っていない。だから今のところミケランジェロの詩とその人の全体像をまとめるのは諦めて詩の一つ一つから読み解こうと思う。

 

ショスタコーヴィチの組曲の第1番はミケランジェロ詩集(John Fredrick Nims氏のThe Complete Poems of Michelangelo)の6番にある。「梅ヶ丘歌曲会館 詩と音楽」のサイトの藤井氏のコメントには1509年作とあり、ディスカウのピアノ版のCDの解説と訳を書いている須賀敦子氏の「須賀敦子全集5」の中の「ミケランジェロの詩と手紙」の注にはチェザレ・グアスティ氏の見解を採用して1506年作、Nims氏は注で1511年作としていてまちまちである。

 

ミケランジェロ・ブォナローティは下の年表から分かるとおり、1475年にイタリア・フィレンツェに生まれた。15歳の時にメディチ家のロレンツォに認められ、そこで多くの文化人と会い教養も積んだ。1489年にフィレンツェにやってきた修道士サヴォナローラの教えはミケランジェロに生涯にわたって影響を与え続けたようだ。ミケランジェロの苦悩や絶望、孤独について考えるとき、会田雄次氏の見解が役立つように思う。会田氏は次のように言っている。

 

「サヴォナローラの説教は、ミケランジェロ自身が語ったように、最後まで彼の耳もとになりつづけたようである。…  サヴォナローラは、したがって、人間の欲望から生まれるいっさいの愛情も認めない。しかも、彼のさらに厳しい教えは、この墜落した人間の行動の否定につらなる。現世的ないっさいの欲望は絶対に肯定できない。名声、権力、富、虚飾の欲望、すべては神のもっとも憎むところである。この欲望につかれたものは神の救済を望む資格はない。罪なるもののうち、もっとも罪なるものは、みずから悪と知って、なおそれを行う行動である。神の審判はただちに、そして寸分の間違いなく、そのもののもとにおそいかかるであろう。」

 

サヴォナローラの教えは当時の腐敗したキリスト教を批判した厳しいものであった。ミケランジェロはサヴォナローラの説教を熱心に聴き、兄のレオナルドはドメニコ会修道士になってしまった。システィーナ礼拝堂天井画「創世記」や「最後の審判」のキリストやマリアまでも裸体で描いたこともその教えからという。

 

「姦淫の心なき人はまた同時に裸体を恥じない。墜落以前のアダムとイヴも、したがって、そのすがたの似せられた神もまたその通りである。汚れなきマリアの姿は汚れなき乙女の全裸であるべきとは、サヴォナローラの説教の実現なのであった。」

 

「ミケランジェロは、このような説教をなにより強く自分の心にとどめた。客観的にみても、彼の行動は矛盾に満ちている。民主主義を唱えながら、法王に仕える。戦闘を叫びながら、逃亡する。信義、友愛を説きながら、同志を見捨てる。肉親を、弟子や友人など他人を愛しながら、気に入らぬとひどい仕うちをする。法王に反逆しながら、その慈悲を請うてとりすがる。性格的にもそうだ。怒りっぽい。闘争心にとむが、臆病である。涙もろいが、残忍である。豪放そうだが、細心というよりも小心である。意のままに振舞うようで、他人の評判を気にする。客観的にみても、人の好意をすぐひきよせる型の人間ではない。深くつきあっても愛想をつかさねばならなくなることも多いだろう。その晩年の孤独はみずから切ったよりも、他人より敬遠されたものであった。しかもミケランジェロの特色は、自分の矛盾をつつみかくさず、しかもそのような自分をなによりも嫌っていたという点にある。
「ああなしたまえ、二度と自分にもどらぬように」」

 

矛盾に満ちた自分自身をミケランジェロは嫌っていた。

 

「ミケランジェロはその長い生涯をかけて、サヴォナローラの教えに反対のことばかりやってきた。彼は痛切に自覚していた。いかに弁明しようと、自分がサヴォナローラのいう救いに値せず、断罪の対象になるべき人間だということを。しかし、どうもがいても、自分は善行をおさめることはできない。彫刻はむなしい。しかし、それは支配者の像を人間の能力の最高度の集中の理想として表現しようとしたからだ。生まれつきの彫刻家である彼は、のみを振るわずには一時間とて生きていられない。その孤独感と絶望は神の姿を、とりわけ「むなしく」わが子を殺してしまった母のなげき、ピエタに向けられる。そのマリアは、なすべきことを何事もなし得ず死んだわが子をなげく母であるが、ミケランジェロにとって、キリストは自分の生涯であり、マリアは現在の自分である。あるいはキリストはミケランジェロであり、マリアはその最後によりすがるべき神の愛の具現である。しかしついに、ミケランジェロには見えなかったのだ。自分のようなものを救いたもうマリアの姿が。」

 

そしてロンダニーニのピエタである。

 

「ロンダニーニのマリア。ヨゼフの姿も消え、マグダラのマリアの姿も消え、そこには、母と子のただ二人がのこされる。無惨に破壊されたその姿は、しかし、ミケランジェロが見ようと欲したマリアの姿をはっきりと示している。それはサヴォナローラの教説とまさに反対に、泣きくずれるマリアである。… マリアはもはやキリストをがっしりとだきあげているのではない。「パレストリーナのマリア」はまだしっかりとくずれおちるキリストをささえていた。ここではマリアは手をそっとキリストの肩におき、むしろキリストにおぶさっている。しかもそのキリストは無惨にくずれおちているのだ。それはキリストとともに、地上に倒れようとする姿である。ただ一人の子を失った老母の絶望の姿である。」(会田雄次著「ミケランジェロ」PHP研究所1996年p222-224)

 

長く引用したがここからミケランジェロの苦悩と絶望が窺い知れる。サヴォナローラは災いを預言し、その言葉通りフランス軍がフィレンツェにやってきた。人々は信じ恐れて一時サヴォナローラによる支配が続くが厳しい禁欲の方策や預言もそう当たらないことなどによってついには火刑になる。ミケランジェロはフランス軍がやってくるとヴェネチアからボローニャに逃げている。

 

フィレンツェに戻ると静謐な「ヴァチカンのピエタ」、巨大な「ダビデ」を制作、そして教皇ユリウス2世に呼び出される。

 

ショスタコーヴィチが選んだ第一曲目に戻ってその作詩年について見てみると、最も早い1506年はミケランジェロが法王ユリウス2世から法王の墓廟を作る計画を一方的に破棄され、石材など準備していたのに資金も払われずに門前払いを食らい、怒ってフィレンツェに戻ってしまった年だ。1509年は彫刻家だとして断ったにもかかわらず、ユリウス2世の指示で描くことになったシスティーナ礼拝堂の天井画が約半分完成したにもかかわらず、滞っていた支払の交渉をしている年。1511年はシスティーナ礼拝堂天井画の除幕式があった年だ。

 

いずれも墓廟の制作の一方的な中止と創世記を描いたシスティーナ礼拝堂天井画にまつわる時期だ。ユリウス2世の案による墓廟の彫刻を作るため大いに期待して準備していたのだが、建築家ブラマンテの画策により法王は墓廟作成を中止し、システィーナ礼拝堂天井画をミケランジェロに命じる。法王は資金の支払いになると何度も出し渋っている。

 

1976年に須賀敦子氏が「ミケランジェロの詩と手紙」の中でこの詩を訳したときは「教皇ユリウス二世に」と題されていて「猊下よ」と呼びかけ「お引き立ててもいただこうと 夢も見ました」「空しいこだまにはお耳をかされますな」と訳しているが、1988年のディスカウの録音の歌詞訳には「主よ」になり「あなたのたかみに登りたいと、わたしはのぞみ」「見つけたのは、むなしいこだまだけ」と訳している。ロシア語訳がそうなっているということなのだろうか。ネステレンコやレイフェルクスの録音の解説にはウサミ・ナオキ氏の訳で「主よ」となっていて、「詩と音楽」のサイトの藤井氏も「主よ」と訳している。

 

Nims氏の注では詩の中にある「剣」は教皇の好戦的な精神の言及であり、「木」は教皇ユリウス2世の本名ジュリアーノ・デッラ・ロヴェレのデッラ・ロヴェレが「オークの」という意味を指していることを指摘している。実際にこの詩が教皇に送られた可能性は低いとしている。

 

「軽口を叩く小さな者たち」とはミケランジェロの敵であったラファエロやブラマンテのことだろう。

 

したがってこの詩はもともと神ではなく法王ユリウス2世に不満を訴えている詩であるとして訳を少し変えてみた。教皇も強情ならミケランジェロも強情。それでも生命に関わるような強い罰は与えられなかったのは教皇もミケランジェロを認めていたからだろう。

 

鳴り響くファンファーレは渦巻く陰謀、自分では変えられない状況の中にあって苦悩する魂の叫びのように聴こえる。

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 ミケランジェロ年表  close 

西暦

年齢

ミケランジェロ

法王名・一般事項

1475

 

0

 

3月6日中部フィレンツェ共和国の力プレーゼ(現アレッツ県)に生まれる。3月末近郊セッティニアーノの石工に里子。

シクストゥスⅣ

1481

6

母死去。

 

1485

10

父再婚。

 

1488

 

13

4月父の反対を押し切ってドメニコ・ギルランダイオ工房に入門。

インノセントⅦ

1490

15

ロレンツォ・デ・メディチ邸に寄宿を許され、教養をつむ。「階段の聖母」「ケンタウロスとラピタイ族の戦い」仲間のトリジァーニの絵を罵り、殴られて鼻の骨を折る。

 

1492

17

ロレンツオ・デ・メディチ没、父の元へ戻る。「磔刑」を制作。サント・スピリト聖堂で人体解剖。

コロンブス新大陸発見。

1493

18

サヴォナローラの説教を聞き感動する。

 

1494

19

 

1月ロレンツォの息子ピエロ、メディチの庭に雪の彫像を作らせる。再びメディチ家に住む。10月ヴェネツィアへ脱出、ついでボローニャへ。

アレクサンデルⅥ

フランス王シャルル8世フィレンツェに来襲。ピエロ逃亡。フィレンツェ共和制。サヴォナローラが独裁的支配。

1495

20

 

フィレンツェへ戻る。レオナルド・ダ・ヴィンチと会う。

 

1497

22

 

「酔えるバッカス」。フランス人枢機卿ジャン・ピレール・ド・ラグロラ「ヴァチカンのピエタ」依頼。6月ローマへ。

 

1498

23

「ヴァチカンのピエタ」

ヴァスコ・ダ・ガマ、インド航路発見。

フィレンツェではサヴォナローラ派と反対派の対立激化、4月サン・マルコ聖堂包囲、5月サヴォナローラ処刑。

1501

26

 

春フィレンツェへ帰る。5月シエナ大聖堂ピッコローミニ祭壇聖像制作契約(1504年までに4体制作)。8月ドゥオーモ大聖堂造営局と毛織物組合より「ダヴィデ」依頼。9月制作開始。この頃「キリストの埋葬」

 

1503

28

4月フィレンツェ、ドゥオーモ大聖堂のために「十二使徒」契約。「トンド・タッディ」

ピウスⅢ

フィレンツェ、ソデリーニが終身の統領に選ばれる。

1504

29

6月「ダヴィデ」市政庁前に設置。「ブリュージュの聖母子」、絵画「トンド・ドーニ」制作。

ユリウスⅡ

1505

30

 

「トンド・ピッティ」。ユリウスⅡの招きでローマへ。ユリウスⅡ墓廟制作を依頼されカッラーラに滞在。

 

1506

31

 

ユリウスII心変りして墓計画を廃棄。4月フイレンツェへ帰る。11月ボローニアでユリウスIIと和解。

 

1507

32

 

ボローニァで巨大なユリウスII青銅像制作に従事。4月蠟鋳型、7月鋳造。

 

1508

33

 

3月「ユリウスII世像」ボローニア、サン・ペトロニオ聖堂正面に設置(1511年12月破壊される)。3月か4月ローマへ。システィーナ礼拝堂天井画契約、制作制作開始。「十二使徒」契約破棄。

 

1509

34

8月システィーナ礼拝堂天井画ほぼ半分完成。9月一年以上途絶えている支払交渉のため、ユリウスⅡに会いにボローニャへ。10月以降ローマ、システィーナ礼拝堂天井画制作再開。

 

1511

36

ボローニャのユリウス像が破壊され、大砲に鋳られる。8月システィーナ礼拝堂天井画除幕式

 

1512

37

10月システィーナ礼拝堂天井画完成。

メディチ家がクーデタでフィレンツェに復帰。マキャベリら追放。

1513

38

ユリウスⅡ死去、遺族と墓制作の契約(第二次)。「モーゼ」像と二つの「囚われ人」像着手。

レオⅩ

1516

41

7月ユリウスII墓廟、第三次契約。9月から墓廟制作のためカッラーラに滞在。12月メディチ家出身の法王レオXよりローマに召ばれフィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂正面の制作依頼。そのためフィレンツェへ。そこでドゥオーモ大聖堂のドームの鼓胴と回廊の改装を依頼される。カッラーラへ戻る。

 

1517

42

 

引き続きカッラーラで大理石切出しに従事。8月病気になる。

ルター九五ヵ条の意見書を発表。宗教改革の端緒。

1518

43

1月レオXとサン・ロレンツォ聖堂正面建設契約。3月新しい大理石産地ピエトラサンタへ行く。4月~9月カッラーラとセラヴェッツァ間の大理石運搬路開拓。

 

1519

44

 

マゼラン世界就航に出発。レオナルド死。

1520

45

3月10日レオⅩ、サン・ロレンツォ聖堂正面建築中止命令。11月8日サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂新聖具室の墓廟建築を依頼。「勝利者」。

ラファエロ死。

1521

46

12月1日レオⅩ死去。ミケランジェロはメディチ家礼拝堂墓廟のためカッラーラで大理石採掘に従事。ユリウスII遺族墓廟遅延を提訴。

 

1523

48

4体の「囚われ人」。サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂墓着手。「聖母子」。

ハドリアヌスⅥ

1524

49

 

 

1月クレメンスⅦにローマへ召び出される。2月クレメンスⅦ提供の給与・住宅を拒否。フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂内ラウレンチアーナ図書館建設依頼。メディチ家礼拝堂・ロレンツォ墓の「ジュリアーノ」「ロレンツォ」「夜明け」「夕」像着手。

クレメンスⅦ

1525

50

ユリウスⅡ遺族の訴訟再発。

 

1526

51

ユリウス墓の第四次設計案を遺族は拒否。

メディチ家墓の「夜」「昼」像着手。

 

1527

52

 

5月神聖ローマ帝国カルルVローマ占領。傭兵による「ローマの掠奪」。フィレンツェ市民メディチ家を追放。再びフィレンツェ共和国成立。

1528

53

フィレンツェ市防衛会議参加。フィレンツェ共和国依頼の「へラクレスとカクス」制作。6月弟ブォナロート死亡。

 

1529

54

1月フィレンツェを防衛するための「軍事九人委員会」に選ばれ、4月「築城総司令官」に就任。7~8月フェッラーラの防衛施設を視察。フィレンツェに戻った9月末ヴェネツィアに逃走。滞在中、リアルト橋の新設計案を依頼される。市政庁や友人らの懇願により11月再びフィレンツェへ戻って防衛工事を指揮。

法王・皇帝・メディチ軍フィレンツェに来襲。

1530

55

フィレンツェでヴァローリのために「ダヴィデ/アポロ」制作。メディチ家の刺客に狙われる。メディチ家礼拝堂の地下に潜伏。11月法王のとりなしで、メディチ家の仕事再開。弟子アントーニオ・ミーニ、フランスへ。

8月フィレンツェ共和国は法王軍に降伏。フィレンツェ公国成立。メディチ家復活。

1531

56

父ロドヴィコ死去。「夜明け」と「夜」ほぼ現在の形まで完成。夏重病に罹る。ミケランジェロとメディチ家の関係悪化。

アレッサンドロ・メディチ、フィレンツェ公となる。

1532

57

4月29日ユリウスII墓廟の新しい契約、彫像6体のみとなる。その年の終り頃トンマーゾ・デ・カヴァリエーリと出会う。カヴァリエーリのために素描制作。終生交流続く。

 

1533

58

9月フランスへ行く直前のクレメンスⅦと会見。システィーナ礼拝堂祭壇壁画「最後の審判」と入口壁に「反逆天使の失墜」制作を約束。10月~翌5月ローマに滞在。

 

1534

59

 

3月「反逆天使の失墜」は契約は破棄。9月ローマに移住、9月クレメンスⅦ死去。「最後の審判」計画中断。ユリウスⅡ墓廟を再開。

パウルⅢ

1535

60

4月「最後の審判」足場架設。9月新法王「最後の審判」契約を追認、ミケランジェロをヴァチカン宮の首席画家、膨刻家および建築家に任命。ヴィットリア・コロンナを識る。

 

1536

61

夏頃再び「最後の審判」に着手か。11月バウルスⅢの法命によりユリウスⅡ墓廟から一時解放。

 

1537

62

カンビドリオ広場整備を依頼される。

フィレンツェ、トスカナ公国となり、共和政終わる。

1538

63

10月から1541年にかけてヴィットリア・コロンナのために素描、詩を制作。

 

1539

64

「ブルータス像」この頃着手か。

 

1540

65

12月「最後の審判」上半分完成。

 

1541

66

「最後の審判」制作中足場から落ち怪我。10月「最後の審判」の覆いを取り除く。ユリウスII墓廟再着手。

カルヴィン、ジュネーブで宗教改革。

1542

67

8月ユリウスⅡ墓廟の最終契約。10月以降パオリーナ礼拝堂壁画「パウロの回心」着手。

 

1545

70

2月にユリウスII墓廟に彫像設置か。その頃ヴィットリアのために素描「磔刑」「ピエタ」図など。7月パオリーナ礼拝堂「パウロの回心」完成。ローマ滞在中のティツィアーノをヴァザーリと訪問。アッレティーノ「最後の審判」批判の手紙。

 

1546

71

1月病気。3月パオリーナ礼拝堂壁画「ペテ口の磔刑」着手。ファルネーゼ宮建設着手。10月サン・ピエトロ大聖堂建築監督に就任。詩集の出版を考える。

 

1547

72

2月ヴィットリア・コロンナ死去。サン・ピエトロ大聖堂第二案模型。「フィレンツェのピエタ」この頃着手か。

 

1548

73

弟ジョヴァン・シモーネ死亡。

 

1549

74

3月から6月尿結石症に苦しむ。ベネデット・ヴァルキ、ミケランジェロのソネットを注釈した「二つの講義」出版。

 

1550

75

3月「ペテロの磔刑」完成。ユリウスⅢからサン・ジョヴァンニ大聖堂、モントリオーニ聖堂の礼拝堂墓建設などの相談。ヴァザーリ「ルネサンス美術家列伝」初版出版。

マルケルスⅡ

1551

76

サン・ロッコ聖堂のそばに建てるユリウスⅢの館の模型着手(~1552年2月)

 

1552

77

カンピドリオ広場第一次整備終了。

 

1553

78

コンディヴィ「ミケランジェロ伝」出版。甥レオナルド(弟ブォナロート長男)結婚。

 

1554

79

イエズス会聖堂(ローマ)の設計。

 

1555

80

パウルスIV、サン・ピエトロ大聖堂のドーム建築を依頼(サン・ロレンツォ聖堂ラウレンチアーナ図書館階段完成)。「パレストリーナのピエタ」制作この頃か。5月結石症再発。弟シジスモンド死亡。12月ミーニの後の弟子ウルビーノ死去。

パウルスⅣ

1556

81

スポレートの山へ避難(→10月末)

9月スペイン軍ローマへ接近

1557

82

8月サン・ピエトロ大聖堂ドームの模型(第三案)(1561年11月完成)。7月通風に苦しむ。ルドヴィコ・ドルチェ「絵画問答」を著しミケランジェロ批判。

 

1559

84

サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂、サンタ・マリア・マッショール望堂内スフォルツァ礼拝堂設計の依頼。「ロンダニーニのピエタ」着手この頃か。

 

1560

85

ピウスⅣからポルタ・ピア(ピアの門)の設計、ディオクレティアヌス帝大浴場遺跡にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティリ聖堂建築設計の依頼。フィレンツェからサン・トリニティ橋設計依頼。

ピウスⅣ

1563

88

1月フィレンツェ、アカデミア・デル・ディゼーニョの名誉院長。この頃「磔刑」制作説あり。1545年12月から開かれていた対抗宗教改革のためのトント公会議はこの年12月に閉会。

 

1564

88

1月トレント公会議の決議をピウスIV承認、システィーナ礼拝堂壁画「最後の審判」の猥褻とみなした部分を「覆い隠す」決定。2月18日ミケランジェロ、ローマで死去。3月11日甥レオナルドによって遺体はフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬。

 

木下長弘氏、会田雄次氏、コンディヴィ高田博厚氏訳の本を参考にした

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diary 2024-8-29(木) 月齢24.7 雨・曇り・台風
コープマンのバッハ・カンタータBWV 180、130、134a、2桁の掛け算は30題くらい。
DAC経由のワイアレスレス・トラブルスピーカーKEF LS50 Wireles IIは今日は正常に聞けた。
ミケランジェロ組曲第1番の訳を変えてみた。ミケランジェロの年表を入れ、その孤独、苦悩、絶望を考えてみた。それらはすべてロンダニー二のピエタから感じとられる。ショスタコーヴィチによる苦悩に満ちたファンファーレが印象的だ。

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