ショスタコーヴィチ Dmitri Shostakovich(1906-1975)
ミケランジェロ組曲 2 朝 Suite on Words by Michelangelo, Op. 145a: 2 Morning (1974)
ランダムA 現在 ( 1 )
data & others close
ミケランジェロ組曲 2 朝 Suite on Words by Michelangelo, Op. 145a: 2 Morning
Net radostej ves'ologo zan'atja: |
花たちにとってこの楽しいときほどうれしいものはない |
Po zlatu kos, tsvetam napereboj |
あのかわいい頭に触れているときほど |
Soprikasats'a s miloj golovoj |
彼女の金色のおさげに |
I I'nut' lobzanjem vs'udu bez izjatja! |
そして彼女のいたるところにキスをしている |
|
|
I skolko naslazhdenija dl'a platja |
彼女の服はなんとうれしいことだろう |
Szhimat' jej stan i nispadat' volnoj; |
胴を抱いて波状に広がり下りる |
I kak otradno setke zolotoj |
金のベールはなんという喜びだろう |
Jejo lanity zakl'uchat' v objatja! |
彼女の顔を包み込むことができて |
|
|
Jescho nezhnej nar'adnoj lenty v'az', |
さらにそっと優しく、あの手の込んだ飾りひもは |
Blest'a uzornoj vyshivkoj svoeju, |
刺繍模様で輝きながら |
Smykajets'a krug persej molodyh. |
若い乳房を締め付けている |
|
|
A chistyi pojas, laskovo vijas, |
そして清らかな帯、優しく曲線をえがいて |
Kak budto shepchet: «Ne rasstanus' s neju...» |
「けっして彼女を離さない…」とささやいているようだ |
0, skolko dela zdes' dl'a ruk moih. |
おお、ここには私の手がなすべきことがなんとたくさんあることだろう |
(ネステレンコ、セロフ、ユロフスキ、ディスカウ、レイフェルクス他の解説の英訳による)
会田雄次氏は著書で次のように書いて、この詩を引用している。
「ミケランジェロは恋をせずにはいられなかった男である。多くの恋愛詩はあふれるような恋情をうたいあげているのだ。それは恋を恋するという空想的なものでもない。プラトニック・ラヴとかいう観念的なものでもない。明らかに対象となる女性が存在したことを示しているものが多いのである。」(会田雄次著「ミケランジェロ」PHP研究所1996年p166)
ミケランジェロの恋愛の相手は、女性では未亡人で信仰生活に入っていた作詩家でもあるヴィットリア・コロンナを除いてはっきりしないようだ。男性ではトマーゾ・ディ・カヴァリエリなど複数いるらしい。会田氏はA・ストーンという人の小説「ミケランジェロの苦悶と陶酔」で想定している、ロレンツォ・ディ・メディチの娘コンテシナへの恋慕を仮定している。身分の差から秘めた愛を持ち続けたのではないかと言う。男性のカヴァリエリには素描「ガニメーデの誘拐」「ティテュオス」などを贈っている。木下長宏氏の「ミケランジェロ」(中公新書2013年)によると、それらは恍惚としたその表情から同性愛者の性愛の図だろうとしている。
ショスタコーヴィチの第2曲目「朝」の詩はJohn Fredrick Nims氏のThe Complete Poems of Michelangeloに載っている第6番目の詩である。コンディヴィ著高田博厚氏訳「ミケランジェロ伝ー付・ミケランジェロの詩と手紙」(岩崎美術社1978年)にも載っている。(p131)いずれも作成年代は1507年32歳のころとしていて、「詩と音楽」のサイトの藤井氏は20歳代の作としている。法王ユリウス2世が自分の墓廟を計画してミケランジェロに命じたにもかかわらず、心変わりして中止し、ミケランジェロは怒ってローマからフィレンツェに帰ってしまった。その後ユリウス2世がボローニャに遠征に来ていたとき、ミケランジェロが出向いて和解し、今度は経験のない青銅像を鋳造するように命じられボローニャに留まって作成しているときの詩である。ボローニャの婦人を愛したのだろうか。
Nims氏の注には1507年12月24日弟への手紙の裏に若々しい走り書きで書かれていたとあり、「美しいボロネーゼに」と呼ばれている詩とある。しかし1507年の手紙をコンディヴィや杉浦明平氏の本で探したが12月24日の手紙は見つけられなかった。ボローニャで1494年に出版されたポリツィアーノのという人の詩がこの詩に類似していて、ミケランジェロは、少女、花輪、韻を含む語などを覚えていたのかもしれないが詩のほとんどは彼のものだそうだ。1494年はミケランジェロはフランス軍から逃れてフィレンツェからボローニャに来ていた時期だ。システィーナ礼拝堂の絵の中に締まった締め紐のついたコルセット、ゆったりとしたスカート、腰に結び目のある紐を身につけている女性の絵が描かれているとしているがどこにあるかわからない。リビアの巫女のことか。また、ミケランジェロの家族は毛織物産業に携わっていて弟に店を作ることも考えていたとある。当時フィレンツェは毛織物産業が盛んな都市だった。
ショスタコーヴィチはこの曲に「朝」と名付けている。第9曲目の「夜」はメディチ家礼拝堂にあるミケランジェロによる「朝」「昼」「夕」「夜」の4体の像の中の「夜」の像にちなんでつけられた詩である。1974年、ミケランジェロ生誕500 年を記念するために作られた曲であり、もともとミケランジェロの詩には題がないので、内容から「朝」の像を連想したのではないかと思う。しかしこの像は詩にあるとおりの服は身につけていない、裸像である。
メディチ家礼拝堂にある4つの像について会田雄次氏は次のように語っている。
「じつはミケランジェロは自分の弱さ、卑屈さをいやというほど自覚していたのである。この間に完成されたメディチ家の廟は、なによりもそのことを明確に物語る。
彼はもう世界に絶望したのではない。自分自身に愛想をつかしたのであった。メディチの一族の像をきざんだのではない。自分の絶望を刻みつけたのだ。メディチのジュリアーノとロレンツォの一対の像、その棺の上に一対になった昼・夜・朝・夕の男女の一対の像、それがそうである。
「朝」、それは青春の美しさをいっぱいにたたえた若い娘の裸像である。ミケランジェロは女性の肉体の表現は下手だったといわれるが、これほど微妙な陰影に富む美しい身体をあらわした彫刻を私は見たことがない。その若さにはりつめた身体は、どのような微細な接触にでも、すぐぴくりと反応をおこしそうな若々しさと恥じらいに満ちている。しかし、その表情はなんという苦痛を示していることだろう。そのなかば開いた口は心の苦しみにたえかねて、苦痛の小さな叫び声をあげている。いうまでもなく、苦痛だけのこの人の世に、無理やり生まれさせられた運命のつらさへの叫び声である。苦悩の人生の朝はこうして開かれ、努力と忍耐との「昼」「夕」の男子像、それに苦渋に満ちた「夜」の眠りがくる。」(会田雄次著「ミケランジェロ」PHP研究所1996年p176)
曲はツヴェターエワの曲の第2番「いったいこの優しさはどこから」やブロークの詩の第3番「私たちは一緒だった」と同じようなムードだ。
ミケランジェロ組曲 close
ミケランジェロ組曲 1 真実 Michelangelo Suite Truth / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 1 真理 (2) Michelangelo Suite Truth / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 2 朝 Michelangelo Suite Morning / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 3 愛 Michelangelo Suite Love / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 4 別れ Michelangelo Suite Separation / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 5 怒り Michelangelo Suite Wrath / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 6 ダンテ Michelangelo Suite Dante / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 7 流刑者に Michelangelo Suite To the Exiled / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 8 創造 Michelangelo Suite Creativity / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 9 夜 Michelangelo Suite Night / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 10 死 Michelangelo Suite Death / Shostakovich
ミケランジェロ年表 close
西暦 |
年齢 |
ミケランジェロ |
法王名・一般事項 |
1475
|
0
|
3月6日中部フィレンツェ共和国の力プレーゼ(現アレッツ県)に生まれる。3月末近郊セッティニアーノの石工に里子。 |
シクストゥスⅣ |
1481 |
6 |
母死去。 |
|
1485 |
10 |
父再婚。 |
|
1488
|
13 |
4月父の反対を押し切ってドメニコ・ギルランダイオ工房に入門。 |
インノセントⅦ |
1490 |
15 |
ロレンツォ・デ・メディチ邸に寄宿を許され、教養をつむ。「階段の聖母」「ケンタウロスとラピタイ族の戦い」仲間のトリジァーニの絵を罵り、殴られて鼻の骨を折る。 |
|
1492 |
17 |
ロレンツオ・デ・メディチ没、父の元へ戻る。「磔刑」を制作。サント・スピリト聖堂で人体解剖。 |
コロンブス新大陸発見。 |
1493 |
18 |
サヴォナローラの説教を聞き感動する。 |
|
1494 |
19
|
1月ロレンツォの息子ピエロ、メディチの庭に雪の彫像を作らせる。再びメディチ家に住む。10月ヴェネツィアへ脱出、ついでボローニャへ。 |
アレクサンデルⅥ フランス王シャルル8世フィレンツェに来襲。ピエロ逃亡。フィレンツェ共和制。サヴォナローラが独裁的支配。 |
1495 |
20
|
フィレンツェへ戻る。レオナルド・ダ・ヴィンチと会う。 |
|
1497 |
22
|
「酔えるバッカス」。フランス人枢機卿ジャン・ピレール・ド・ラグロラ「ヴァチカンのピエタ」依頼。6月ローマへ。 |
|
1498 |
23 |
「ヴァチカンのピエタ」 |
ヴァスコ・ダ・ガマ、インド航路発見。 フィレンツェではサヴォナローラ派と反対派の対立激化、4月サン・マルコ聖堂包囲、5月サヴォナローラ処刑。 |
1501 |
26
|
春フィレンツェへ帰る。5月シエナ大聖堂ピッコローミニ祭壇聖像制作契約(1504年までに4体制作)。8月ドゥオーモ大聖堂造営局と毛織物組合より「ダヴィデ」依頼。9月制作開始。この頃「キリストの埋葬」 |
|
1503 |
28 |
4月フィレンツェ、ドゥオーモ大聖堂のために「十二使徒」契約。「トンド・タッディ」 |
ピウスⅢ フィレンツェ、ソデリーニが終身の統領に選ばれる。 |
1504 |
29 |
6月「ダヴィデ」市政庁前に設置。「ブリュージュの聖母子」、絵画「トンド・ドーニ」制作。 |
ユリウスⅡ |
1505 |
30
|
「トンド・ピッティ」。ユリウスⅡの招きでローマへ。ユリウスⅡ墓廟制作を依頼されカッラーラに滞在。 |
|
1506 |
31
|
ユリウスII心変りして墓計画を廃棄。4月フイレンツェへ帰る。11月ボローニアでユリウスIIと和解。 |
|
1507 |
32
|
ボローニァで巨大なユリウスII青銅像制作に従事。4月蠟鋳型、7月鋳造。 |
|
1508 |
33
|
3月「ユリウスII世像」ボローニア、サン・ペトロニオ聖堂正面に設置(1511年12月破壊される)。3月か4月ローマへ。システィーナ礼拝堂天井画契約、制作制作開始。「十二使徒」契約破棄。 |
|
1509 |
34 |
8月システィーナ礼拝堂天井画ほぼ半分完成。9月一年以上途絶えている支払交渉のため、ユリウスⅡに会いにボローニャへ。10月以降ローマ、システィーナ礼拝堂天井画制作再開。 |
|
1511 |
36 |
ボローニャのユリウス像が破壊され、大砲に鋳られる。8月システィーナ礼拝堂天井画除幕式 |
|
1512 |
37 |
10月システィーナ礼拝堂天井画完成。 |
メディチ家がクーデタでフィレンツェに復帰。マキャベリら追放。 |
1513 |
38 |
ユリウスⅡ死去、遺族と墓制作の契約(第二次)。「モーゼ」像と二つの「囚われ人」像着手。 |
レオⅩ |
1516 |
41 |
7月ユリウスII墓廟、第三次契約。9月から墓廟制作のためカッラーラに滞在。12月メディチ家出身の法王レオXよりローマに召ばれフィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂正面の制作依頼。そのためフィレンツェへ。そこでドゥオーモ大聖堂のドームの鼓胴と回廊の改装を依頼される。カッラーラへ戻る。 |
|
1517 |
42
|
引き続きカッラーラで大理石切出しに従事。8月病気になる。 |
ルター九五ヵ条の意見書を発表。宗教改革の端緒。 |
1518 |
43 |
1月レオXとサン・ロレンツォ聖堂正面建設契約。3月新しい大理石産地ピエトラサンタへ行く。4月~9月カッラーラとセラヴェッツァ間の大理石運搬路開拓。 |
|
1519 |
44 |
|
マゼラン世界就航に出発。レオナルド死。 |
1520 |
45 |
3月10日レオⅩ、サン・ロレンツォ聖堂正面建築中止命令。11月8日サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂新聖具室の墓廟建築を依頼。「勝利者」。 |
ラファエロ死。 |
1521 |
46 |
12月1日レオⅩ死去。ミケランジェロはメディチ家礼拝堂墓廟のためカッラーラで大理石採掘に従事。ユリウスII遺族墓廟遅延を提訴。 |
|
1523 |
48 |
4体の「囚われ人」。サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂墓着手。「聖母子」。 |
ハドリアヌスⅥ |
1524 |
49
|
1月クレメンスⅦにローマへ召び出される。2月クレメンスⅦ提供の給与・住宅を拒否。フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂内ラウレンチアーナ図書館建設依頼。メディチ家礼拝堂・ロレンツォ墓の「ジュリアーノ」「ロレンツォ」「夜明け」「夕」像着手。 |
クレメンスⅦ |
1525 |
50 |
ユリウスⅡ遺族の訴訟再発。 |
|
1526 |
51 |
ユリウス墓の第四次設計案を遺族は拒否。 メディチ家墓の「夜」「昼」像着手。 |
|
1527 |
52 |
|
5月神聖ローマ帝国カルルVローマ占領。傭兵による「ローマの掠奪」。フィレンツェ市民メディチ家を追放。再びフィレンツェ共和国成立。 |
1528 |
53 |
フィレンツェ市防衛会議参加。フィレンツェ共和国依頼の「へラクレスとカクス」制作。6月弟ブォナロート死亡。 |
|
1529 |
54 |
1月フィレンツェを防衛するための「軍事九人委員会」に選ばれ、4月「築城総司令官」に就任。7~8月フェッラーラの防衛施設を視察。フィレンツェに戻った9月末ヴェネツィアに逃走。滞在中、リアルト橋の新設計案を依頼される。市政庁や友人らの懇願により11月再びフィレンツェへ戻って防衛工事を指揮。 |
法王・皇帝・メディチ軍フィレンツェに来襲。 |
1530 |
55 |
フィレンツェでヴァローリのために「ダヴィデ/アポロ」制作。メディチ家の刺客に狙われる。メディチ家礼拝堂の地下に潜伏。11月法王のとりなしで、メディチ家の仕事再開。弟子アントーニオ・ミーニ、フランスへ。 |
8月フィレンツェ共和国は法王軍に降伏。フィレンツェ公国成立。メディチ家復活。 |
1531 |
56 |
父ロドヴィコ死去。「夜明け」と「夜」ほぼ現在の形まで完成。夏重病に罹る。ミケランジェロとメディチ家の関係悪化。 |
アレッサンドロ・メディチ、フィレンツェ公となる。 |
1532 |
57 |
4月29日ユリウスII墓廟の新しい契約、彫像6体のみとなる。その年の終り頃トンマーゾ・デ・カヴァリエーリと出会う。カヴァリエーリのために素描制作。終生交流続く。 |
|
1533 |
58 |
9月フランスへ行く直前のクレメンスⅦと会見。システィーナ礼拝堂祭壇壁画「最後の審判」と入口壁に「反逆天使の失墜」制作を約束。10月~翌5月ローマに滞在。 |
|
1534 |
59
|
3月「反逆天使の失墜」は契約は破棄。9月ローマに移住、9月クレメンスⅦ死去。「最後の審判」計画中断。ユリウスⅡ墓廟を再開。 |
パウルⅢ |
1535 |
60 |
4月「最後の審判」足場架設。9月新法王「最後の審判」契約を追認、ミケランジェロをヴァチカン宮の首席画家、膨刻家および建築家に任命。ヴィットリア・コロンナを識る。 |
|
1536 |
61 |
夏頃再び「最後の審判」に着手か。11月バウルスⅢの法命によりユリウスⅡ墓廟から一時解放。 |
|
1537 |
62 |
カンビドリオ広場整備を依頼される。 |
フィレンツェ、トスカナ公国となり、共和政終わる。 |
1538 |
63 |
10月から1541年にかけてヴィットリア・コロンナのために素描、詩を制作。 |
|
1539 |
64 |
「ブルータス像」この頃着手か。 |
|
1540 |
65 |
12月「最後の審判」上半分完成。 |
|
1541 |
66 |
「最後の審判」制作中足場から落ち怪我。10月「最後の審判」の覆いを取り除く。ユリウスII墓廟再着手。 |
カルヴィン、ジュネーブで宗教改革。 |
1542 |
67 |
8月ユリウスⅡ墓廟の最終契約。10月以降パオリーナ礼拝堂壁画「パウロの回心」着手。 |
|
1545 |
70 |
2月にユリウスII墓廟に彫像設置か。その頃ヴィットリアのために素描「磔刑」「ピエタ」図など。7月パオリーナ礼拝堂「パウロの回心」完成。ローマ滞在中のティツィアーノをヴァザーリと訪問。アッレティーノ「最後の審判」批判の手紙。 |
|
1546 |
71 |
1月病気。3月パオリーナ礼拝堂壁画「ペテ口の磔刑」着手。ファルネーゼ宮建設着手。10月サン・ピエトロ大聖堂建築監督に就任。詩集の出版を考える。 |
|
1547 |
72 |
2月ヴィットリア・コロンナ死去。サン・ピエトロ大聖堂第二案模型。「フィレンツェのピエタ」この頃着手か。 |
|
1548 |
73 |
弟ジョヴァン・シモーネ死亡。 |
|
1549 |
74 |
3月から6月尿結石症に苦しむ。ベネデット・ヴァルキ、ミケランジェロのソネットを注釈した「二つの講義」出版。 |
|
1550 |
75 |
3月「ペテロの磔刑」完成。ユリウスⅢからサン・ジョヴァンニ大聖堂、モントリオーニ聖堂の礼拝堂墓建設などの相談。ヴァザーリ「ルネサンス美術家列伝」初版出版。 |
マルケルスⅡ |
1551 |
76 |
サン・ロッコ聖堂のそばに建てるユリウスⅢの館の模型着手(~1552年2月) |
|
1552 |
77 |
カンピドリオ広場第一次整備終了。 |
|
1553 |
78 |
コンディヴィ「ミケランジェロ伝」出版。甥レオナルド(弟ブォナロート長男)結婚。 |
|
1554 |
79 |
イエズス会聖堂(ローマ)の設計。 |
|
1555 |
80 |
パウルスIV、サン・ピエトロ大聖堂のドーム建築を依頼(サン・ロレンツォ聖堂ラウレンチアーナ図書館階段完成)。「パレストリーナのピエタ」制作この頃か。5月結石症再発。弟シジスモンド死亡。12月ミーニの後の弟子ウルビーノ死去。 |
パウルスⅣ |
1556 |
81 |
スポレートの山へ避難(→10月末) |
9月スペイン軍ローマへ接近 |
1557 |
82 |
8月サン・ピエトロ大聖堂ドームの模型(第三案)(1561年11月完成)。7月通風に苦しむ。ルドヴィコ・ドルチェ「絵画問答」を著しミケランジェロ批判。 |
|
1559 |
84 |
サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂、サンタ・マリア・マッショール望堂内スフォルツァ礼拝堂設計の依頼。「ロンダニーニのピエタ」着手この頃か。 |
|
1560 |
85 |
ピウスⅣからポルタ・ピア(ピアの門)の設計、ディオクレティアヌス帝大浴場遺跡にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティリ聖堂建築設計の依頼。フィレンツェからサン・トリニティ橋設計依頼。 |
ピウスⅣ |
1563 |
88 |
1月フィレンツェ、アカデミア・デル・ディゼーニョの名誉院長。この頃「磔刑」制作説あり。1545年12月から開かれていた対抗宗教改革のためのトント公会議はこの年12月に閉会。 |
|
1564 |
88 |
1月トレント公会議の決議をピウスIV承認、システィーナ礼拝堂壁画「最後の審判」の猥褻とみなした部分を「覆い隠す」決定。2月18日ミケランジェロ、ローマで死去。3月11日甥レオナルドによって遺体はフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬。 |
|
木下長弘氏、会田雄次氏、コンディヴィ高田博厚氏訳の本を参考にした
today today close
diary 2024-9-3(火) 月齢0.0 曇り・晴れ
コープマンのバッハ・カンタータBWV 135、124、121、111、ミケランジェロ組曲第2曲目を聴く。2桁の掛け算は30題くらい。
DAC経由のワイアレスレス・トラブルスピーカーKEF LS50 Wireles IIは今日は正常に聞けた。
ミケランジェロ2朝をアップ。
不快にさせる広告は見たくないどんなに不快でも広告は見たい