ショスタコーヴィチ Dmitri Shostakovich(1906-1975)
ミケランジェロ組曲 3 愛 Suite on Words by Michelangelo, Op. 145a: 3 Love (1974)
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ミケランジェロ組曲 3 愛 Suite on Words by Michelangelo, Op. 145a: 3 Love
- Skazhi, L'ubov', voistinu li vzoru |
教えてくれ、愛よ、私の目は |
Zhelannaja predstala krasota, |
本当に美を見ているのだろうか |
Il' to moja tvor' aschaja mechta |
それとも偶然に選ばれた補助的な |
Sluchajny lik sebe vz' ala v oporu? |
私の創造上の空想に過ぎないのだろうか |
|
|
Tebe l' ne znat'? Ved's nim po ugovoru |
おまえは知っているはずだ 今までの流れの中で |
Ty sna men'a lishila. Pust'! |
私から眠りを奪ったのはおまえだ どうでもいい |
Usta lelejut kazhdyj vzdoh, |
私の唇はため息をつづけ |
I zalita dusha ogn'om, ne znajuschim otporu. |
魂は抑えがたい火であふれかえる |
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|
- Ty istinnuju vidish krasotu |
”おまえは本当の美を見ているだ |
No blesk jejo gorit, vs'o razrastajas, |
だがその輝きは燃え、ますます大きくなっていく |
Kogda skvoz' vzor k dushe voskhodit on; |
それがおまえの目から魂に昇っていくと |
|
|
Tam obretaja bozhju chistotu, |
そこで神の純粋さを得る |
Bessmaertnomu tvortsu upodobl'ajas, - |
永遠なるもののように |
Vot pochemu tvoj vzglad zavorozhon. |
こうしておまえの目は魅せられるのだ” |
(ネステレンコ、セロフ、ユロフスキ、ディスカウ、レイフェルクス他の解説の英訳による)
この詩はNims氏の本では42番で注には1528年以降とだけあり他に説明は加えられていない。藤井氏のサイトでは1529年とある。ミケランジェロにとって1528年ころとはどういう時期なのだろうか。
法王ユリウス2世の命を受けたシスティーナ礼拝堂の天井画は、1512年ミケランジェロ37歳のときに完成する。1513年ユリウス2世が没する。ユリウス2世の墓廟の契約が交わされ、「モーゼ」と2体の「奴隷(囚われ人)」の像が作られる。法王になる人物は高齢の人が多いから次々と入れ替わる。
次の法王レオ10世はミケランジェロが世話になったロレンツォ・ディ・メディチの息子である。メディチ家の寺院、サン・ロレンツォの正面を完成させる仕事が与えられる。しかしなかなか完成しないので1520年(45歳)に契約が破棄される。このとき、ミケランジェロに自分の能力に対する不安感が湧いてきた。ミケランジェロの真の転回点はあるいはこの時期に求められるかもしれないと会田雄次氏は言う。
1523年、レオ10世が没し、クレメンス7世が法王となる。ユリウス2世の遺族はユリウス2世の墓廟の築造を継続するように脅迫してくる。クレメンス7世は一切の仕事をやめてメディチの礼拝堂と墓廟の作成を命じる。ミケランジェロは一旦断るが渋々引き受けることになる。自分の父親の神経症の症状がひどくなり、弟たちとの関係もうまくいかず、自分のところに引き取ることになったが、その症状はまるで今の認知症の老人のようだ。1520年から27年にかけて残された作品は未完成のままだという。
1527年(52歳)、神聖ローマ皇帝カール5世がイタリア支配を目論んで兵を向けローマ劫略を行う。ドイツ軍はローマで掠奪暴行をほしいままにし数万人が殺害されたという。法王クレメンス7世はドイツ皇帝と和解することになる。
フィレンツェではこの機に1512年から再び市政を支配していたメディチ家を追い出し、ドイツ軍の攻撃に備えた。ミケランジェロはフィレンツェの防塞築城司令の役目についたが、指揮官が裏切ったとの噂が広まると、フランス王の庇護を求めヴェネチアにまたも逃亡する。だが、共和国の反逆者と宣告され不安になり、友人の説得によりフィレンツェに帰ることになるが市民大会議の出席権は奪われた。1530年、噂通り指揮官が裏切り、法王・皇帝軍が入城しメディチを世襲君主とする公国が成立、フィレンツェ市民共和国は滅びる。
フィレンツェでは反逆者の処罰が徹底的に行われた。帰郷を説得した友人も血祭りに挙げられた。ミケランジェロはメディチ廟の制作を続けることでクレメンス7世によって処罰を免れる。友人の殺害者である支配者にも御機嫌取りに像を作っている。
ミケランジェロは自分の弱さ、卑屈さを嫌というほど自覚し、自分自身に絶望した。そしてその絶望は2番目の曲「朝」で取り上げたメディチ家墓廟の「朝」「昼」「夕」「夜」の4つの像に刻み込まれたのだと会田雄次氏は言う。(会田雄次著「ミケランジェロ」PHP研究所1996年)
この詩はミケランジェロの問いとそれに対する愛の神の返答という形になっている。ミケランジェロという人を時系列に追ってくると、ちょうどこの時期に自信への揺らぎや不安感が頭をもたげてくる。そう見ると少し納得できる。しかしなぜ「芸術の神」ではなく「愛よ」と呼びかけているのかがよくわからない。
いろいろな英訳を比較するとherという言葉が出てくるものが、ユロフスキ、ヤルヴィ、ディスカウ盤で、出てこないものがLPマキシム・ショスタコーヴィチとセロフ、ノセダ盤である。つまり前者はこの詩を実際の人間の女性の美を、後者は像や絵画の芸術としての美を表現しているとみているようだ。
日本語訳を比較すると「詩と音楽」の藤井氏と、ピアノ版ディスカウの訳をした須賀敦子氏は人間の女性として訳し、Mショスタコーヴィチ盤やショスタコーヴィチ声楽全集で訳をしたウサミ・ナオキ氏は1976年、1993年改訳の両方とも人間の女性を表す言葉は出てこない。彫像や絵画作品の美を歌っているように思えるのでそのように訳した。主にセロフ盤の英訳を使った。ショスタコーヴィチの曲も内面に深く問いかけているかのようだ。
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ミケランジェロ組曲 1 真実 Michelangelo Suite Truth / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 1 真理 (2) Michelangelo Suite Truth / Shostakovich
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ミケランジェロ組曲 3 愛 Michelangelo Suite Love / Shostakovich
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ミケランジェロ組曲 9 夜 Michelangelo Suite Night / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 10 死 Michelangelo Suite Death / Shostakovich
ミケランジェロ年表 close
西暦 |
年齢 |
ミケランジェロ |
法王名・一般事項 |
1475
|
0
|
3月6日中部フィレンツェ共和国の力プレーゼ(現アレッツ県)に生まれる。3月末近郊セッティニアーノの石工に里子。 |
シクストゥスⅣ |
1481 |
6 |
母死去。 |
|
1485 |
10 |
父再婚。 |
|
1488
|
13 |
4月父の反対を押し切ってドメニコ・ギルランダイオ工房に入門。 |
インノセントⅦ |
1490 |
15 |
ロレンツォ・デ・メディチ邸に寄宿を許され、教養をつむ。「階段の聖母」「ケンタウロスとラピタイ族の戦い」仲間のトリジァーニの絵を罵り、殴られて鼻の骨を折る。 |
|
1492 |
17 |
ロレンツオ・デ・メディチ没、父の元へ戻る。「磔刑」を制作。サント・スピリト聖堂で人体解剖。 |
コロンブス新大陸発見。 |
1493 |
18 |
サヴォナローラの説教を聞き感動する。 |
|
1494 |
19
|
1月ロレンツォの息子ピエロ、メディチの庭に雪の彫像を作らせる。再びメディチ家に住む。10月ヴェネツィアへ脱出、ついでボローニャへ。 |
アレクサンデルⅥ フランス王シャルル8世フィレンツェに来襲。ピエロ逃亡。フィレンツェ共和制。サヴォナローラが独裁的支配。 |
1495 |
20
|
フィレンツェへ戻る。レオナルド・ダ・ヴィンチと会う。 |
|
1497 |
22
|
「酔えるバッカス」。フランス人枢機卿ジャン・ピレール・ド・ラグロラ「ヴァチカンのピエタ」依頼。6月ローマへ。 |
|
1498 |
23 |
「ヴァチカンのピエタ」 |
ヴァスコ・ダ・ガマ、インド航路発見。 フィレンツェではサヴォナローラ派と反対派の対立激化、4月サン・マルコ聖堂包囲、5月サヴォナローラ処刑。 |
1501 |
26
|
春フィレンツェへ帰る。5月シエナ大聖堂ピッコローミニ祭壇聖像制作契約(1504年までに4体制作)。8月ドゥオーモ大聖堂造営局と毛織物組合より「ダヴィデ」依頼。9月制作開始。この頃「キリストの埋葬」 |
|
1503 |
28 |
4月フィレンツェ、ドゥオーモ大聖堂のために「十二使徒」契約。「トンド・タッディ」 |
ピウスⅢ フィレンツェ、ソデリーニが終身の統領に選ばれる。 |
1504 |
29 |
6月「ダヴィデ」市政庁前に設置。「ブリュージュの聖母子」、絵画「トンド・ドーニ」制作。 |
ユリウスⅡ |
1505 |
30
|
「トンド・ピッティ」。ユリウスⅡの招きでローマへ。ユリウスⅡ墓廟制作を依頼されカッラーラに滞在。 |
|
1506 |
31
|
ユリウスII心変りして墓計画を廃棄。4月フイレンツェへ帰る。11月ボローニアでユリウスIIと和解。 |
|
1507 |
32
|
ボローニァで巨大なユリウスII青銅像制作に従事。4月蠟鋳型、7月鋳造。 |
|
1508 |
33
|
3月「ユリウスII世像」ボローニア、サン・ペトロニオ聖堂正面に設置(1511年12月破壊される)。3月か4月ローマへ。システィーナ礼拝堂天井画契約、制作制作開始。「十二使徒」契約破棄。 |
|
1509 |
34 |
8月システィーナ礼拝堂天井画ほぼ半分完成。9月一年以上途絶えている支払交渉のため、ユリウスⅡに会いにボローニャへ。10月以降ローマ、システィーナ礼拝堂天井画制作再開。 |
|
1511 |
36 |
ボローニャのユリウス像が破壊され、大砲に鋳られる。8月システィーナ礼拝堂天井画除幕式 |
|
1512 |
37 |
10月システィーナ礼拝堂天井画完成。 |
メディチ家がクーデタでフィレンツェに復帰。マキャベリら追放。 |
1513 |
38 |
ユリウスⅡ死去、遺族と墓制作の契約(第二次)。「モーゼ」像と二つの「囚われ人」像着手。 |
レオⅩ |
1516 |
41 |
7月ユリウスII墓廟、第三次契約。9月から墓廟制作のためカッラーラに滞在。12月メディチ家出身の法王レオXよりローマに召ばれフィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂正面の制作依頼。そのためフィレンツェへ。そこでドゥオーモ大聖堂のドームの鼓胴と回廊の改装を依頼される。カッラーラへ戻る。 |
|
1517 |
42
|
引き続きカッラーラで大理石切出しに従事。8月病気になる。 |
ルター九五ヵ条の意見書を発表。宗教改革の端緒。 |
1518 |
43 |
1月レオXとサン・ロレンツォ聖堂正面建設契約。3月新しい大理石産地ピエトラサンタへ行く。4月~9月カッラーラとセラヴェッツァ間の大理石運搬路開拓。 |
|
1519 |
44 |
|
マゼラン世界就航に出発。レオナルド死。 |
1520 |
45 |
3月10日レオⅩ、サン・ロレンツォ聖堂正面建築中止命令。11月8日サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂新聖具室の墓廟建築を依頼。「勝利者」。 |
ラファエロ死。 |
1521 |
46 |
12月1日レオⅩ死去。ミケランジェロはメディチ家礼拝堂墓廟のためカッラーラで大理石採掘に従事。ユリウスII遺族墓廟遅延を提訴。 |
|
1523 |
48 |
4体の「囚われ人」。サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂墓着手。「聖母子」。 |
ハドリアヌスⅥ |
1524 |
49
|
1月クレメンスⅦにローマへ召び出される。2月クレメンスⅦ提供の給与・住宅を拒否。フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂内ラウレンチアーナ図書館建設依頼。メディチ家礼拝堂・ロレンツォ墓の「ジュリアーノ」「ロレンツォ」「夜明け」「夕」像着手。 |
クレメンスⅦ |
1525 |
50 |
ユリウスⅡ遺族の訴訟再発。 |
|
1526 |
51 |
ユリウス墓の第四次設計案を遺族は拒否。 メディチ家墓の「夜」「昼」像着手。 |
|
1527 |
52 |
|
5月神聖ローマ帝国カルルVローマ占領。傭兵による「ローマの掠奪」。フィレンツェ市民メディチ家を追放。再びフィレンツェ共和国成立。 |
1528 |
53 |
フィレンツェ市防衛会議参加。フィレンツェ共和国依頼の「へラクレスとカクス」制作。6月弟ブォナロート死亡。 |
|
1529 |
54 |
1月フィレンツェを防衛するための「軍事九人委員会」に選ばれ、4月「築城総司令官」に就任。7~8月フェッラーラの防衛施設を視察。フィレンツェに戻った9月末ヴェネツィアに逃走。滞在中、リアルト橋の新設計案を依頼される。市政庁や友人らの懇願により11月再びフィレンツェへ戻って防衛工事を指揮。 |
法王・皇帝・メディチ軍フィレンツェに来襲。 |
1530 |
55 |
フィレンツェでヴァローリのために「ダヴィデ/アポロ」制作。メディチ家の刺客に狙われる。メディチ家礼拝堂の地下に潜伏。11月法王のとりなしで、メディチ家の仕事再開。弟子アントーニオ・ミーニ、フランスへ。 |
8月フィレンツェ共和国は法王軍に降伏。フィレンツェ公国成立。メディチ家復活。 |
1531 |
56 |
父ロドヴィコ死去。「夜明け」と「夜」ほぼ現在の形まで完成。夏重病に罹る。ミケランジェロとメディチ家の関係悪化。 |
アレッサンドロ・メディチ、フィレンツェ公となる。 |
1532 |
57 |
4月29日ユリウスII墓廟の新しい契約、彫像6体のみとなる。その年の終り頃トンマーゾ・デ・カヴァリエーリと出会う。カヴァリエーリのために素描制作。終生交流続く。 |
|
1533 |
58 |
9月フランスへ行く直前のクレメンスⅦと会見。システィーナ礼拝堂祭壇壁画「最後の審判」と入口壁に「反逆天使の失墜」制作を約束。10月~翌5月ローマに滞在。 |
|
1534 |
59
|
3月「反逆天使の失墜」は契約は破棄。9月ローマに移住、9月クレメンスⅦ死去。「最後の審判」計画中断。ユリウスⅡ墓廟を再開。 |
パウルⅢ |
1535 |
60 |
4月「最後の審判」足場架設。9月新法王「最後の審判」契約を追認、ミケランジェロをヴァチカン宮の首席画家、膨刻家および建築家に任命。ヴィットリア・コロンナを識る。 |
|
1536 |
61 |
夏頃再び「最後の審判」に着手か。11月バウルスⅢの法命によりユリウスⅡ墓廟から一時解放。 |
|
1537 |
62 |
カンビドリオ広場整備を依頼される。 |
フィレンツェ、トスカナ公国となり、共和政終わる。 |
1538 |
63 |
10月から1541年にかけてヴィットリア・コロンナのために素描、詩を制作。 |
|
1539 |
64 |
「ブルータス像」この頃着手か。 |
|
1540 |
65 |
12月「最後の審判」上半分完成。 |
|
1541 |
66 |
「最後の審判」制作中足場から落ち怪我。10月「最後の審判」の覆いを取り除く。ユリウスII墓廟再着手。 |
カルヴィン、ジュネーブで宗教改革。 |
1542 |
67 |
8月ユリウスⅡ墓廟の最終契約。10月以降パオリーナ礼拝堂壁画「パウロの回心」着手。 |
|
1545 |
70 |
2月にユリウスII墓廟に彫像設置か。その頃ヴィットリアのために素描「磔刑」「ピエタ」図など。7月パオリーナ礼拝堂「パウロの回心」完成。ローマ滞在中のティツィアーノをヴァザーリと訪問。アッレティーノ「最後の審判」批判の手紙。 |
|
1546 |
71 |
1月病気。3月パオリーナ礼拝堂壁画「ペテ口の磔刑」着手。ファルネーゼ宮建設着手。10月サン・ピエトロ大聖堂建築監督に就任。詩集の出版を考える。 |
|
1547 |
72 |
2月ヴィットリア・コロンナ死去。サン・ピエトロ大聖堂第二案模型。「フィレンツェのピエタ」この頃着手か。 |
|
1548 |
73 |
弟ジョヴァン・シモーネ死亡。 |
|
1549 |
74 |
3月から6月尿結石症に苦しむ。ベネデット・ヴァルキ、ミケランジェロのソネットを注釈した「二つの講義」出版。 |
|
1550 |
75 |
3月「ペテロの磔刑」完成。ユリウスⅢからサン・ジョヴァンニ大聖堂、モントリオーニ聖堂の礼拝堂墓建設などの相談。ヴァザーリ「ルネサンス美術家列伝」初版出版。 |
マルケルスⅡ |
1551 |
76 |
サン・ロッコ聖堂のそばに建てるユリウスⅢの館の模型着手(~1552年2月) |
|
1552 |
77 |
カンピドリオ広場第一次整備終了。 |
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1553 |
78 |
コンディヴィ「ミケランジェロ伝」出版。甥レオナルド(弟ブォナロート長男)結婚。 |
|
1554 |
79 |
イエズス会聖堂(ローマ)の設計。 |
|
1555 |
80 |
パウルスIV、サン・ピエトロ大聖堂のドーム建築を依頼(サン・ロレンツォ聖堂ラウレンチアーナ図書館階段完成)。「パレストリーナのピエタ」制作この頃か。5月結石症再発。弟シジスモンド死亡。12月ミーニの後の弟子ウルビーノ死去。 |
パウルスⅣ |
1556 |
81 |
スポレートの山へ避難(→10月末) |
9月スペイン軍ローマへ接近 |
1557 |
82 |
8月サン・ピエトロ大聖堂ドームの模型(第三案)(1561年11月完成)。7月通風に苦しむ。ルドヴィコ・ドルチェ「絵画問答」を著しミケランジェロ批判。 |
|
1559 |
84 |
サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂、サンタ・マリア・マッショール望堂内スフォルツァ礼拝堂設計の依頼。「ロンダニーニのピエタ」着手この頃か。 |
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1560 |
85 |
ピウスⅣからポルタ・ピア(ピアの門)の設計、ディオクレティアヌス帝大浴場遺跡にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティリ聖堂建築設計の依頼。フィレンツェからサン・トリニティ橋設計依頼。 |
ピウスⅣ |
1563 |
88 |
1月フィレンツェ、アカデミア・デル・ディゼーニョの名誉院長。この頃「磔刑」制作説あり。1545年12月から開かれていた対抗宗教改革のためのトント公会議はこの年12月に閉会。 |
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1564 |
88 |
1月トレント公会議の決議をピウスIV承認、システィーナ礼拝堂壁画「最後の審判」の猥褻とみなした部分を「覆い隠す」決定。2月18日ミケランジェロ、ローマで死去。3月11日甥レオナルドによって遺体はフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬。 |
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木下長弘氏、会田雄次氏、コンディヴィ高田博厚氏訳の本を参考にした
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diary 2024-9-10(火) 月齢 7.0 晴れ
コープマンのバッハ・カンタータBWV 103、42、123、ドビュッシー作品集の歌劇「ロドリーグとシメーヌ」第3幕の途中まで聴く。2桁の掛け算は30題くらい。
DAC経由のワイアレスレス・トラブルスピーカーKEF LS50 Wireles IIは今日は正常に聞けた。
ショスタコーヴィチ・ミケランジェロ組曲3「愛」をアップ。時間がかかる。
不快にさせる広告は見たくないどんなに不快でも広告は見たい