ショスタコーヴィチ Dmitri Shostakovich(1906-1975)
ミケランジェロ組曲 5 怒り Suite on Words by Michelangelo, Op. 145a: 5 Wrath (1974)
ランダムA 現在 ( 1 )
data & others close
ミケランジェロ組曲 5 怒り Suite on Words by Michelangelo, Op. 145a: 5 Wrath
Zdes' delajut iz chash mechi I shlemy |
ここでは聖杯から剣と兜を作り |
I krov' Hristovu prodajut na ves; |
はかりでキリストの血を売っている |
Na schit zdes' t'orn, na kopja krest ischez,- |
いばらの冠は盾に、聖なる十字架は槍に使われ |
Usta zh Hristovy terpelivo nemy. |
キリストの唇は我慢強く閉じられたままだ |
|
|
Pust' on niskhodit v nashi Vifleemy |
私たちのベツレヘムに彼を降臨させてはならない |
Il' snova bryznet krovju do nebes, |
さもないと天に届くほど彼の血がまた流れる |
Zatem, chto dushegubam Rim - chto les, |
あの残忍な殺人鬼たちはローマを野生の森と見なしているから |
I miloserdie derzhim na zamke my. |
私たちは閉じた扉の後ろで慈悲を守る |
|
|
Mne ne groz'at roskoshestva obuzy, |
私はいらない贅沢品からの脅しは感じない |
Ved' d'a men'a davno uzh net zdes' del; |
ここではずっと長い間することがなかったのだ |
Ja mantii strashus', kak Mavr - Meduzy; |
ムーア人がメドゥーサを恐れるように裕福な衣装を恐れる |
|
|
No jesli bednost' slavoj Bog odel, |
しかしもし神が貧しさに栄光を授けるなら |
kakie zh nam togda gotovit uzy |
私たちを待ち受ける束縛はどんなものか |
Pod znamenem inym inoj udel? |
他の運命による、他の色合いのもとで |
(ネステレンコ、セロフ、ユロフスキ、ディスカウ、レイフェルクス他の解説の英訳による)
この詩はJohn Fredrick Nims著 The Complete Poems of Michelangeloでは10番のソネットで1512年とあり、藤井氏のサイトでも1512年である。Nims氏の注にはさらに次のように書かれている。
「これは堕落した聖職者と三角帽の法王ユリウス2世の軍国主義的政策についての不満だ。「あなたのミケランジェロよりトルコにて」とサインされている。多分サヴォナローラがローマの聖職者をトルコ人より悪いと呼んだことを思い出してのことだろう。1520年に完成されたミケランジェロの復活のキリスト像がこのソネットとの目にみえる対応物と思われる。権力者によって言いふらされるキリストのイメージとは対照的な真のキリストである。」
1512年はシスティーナ礼拝堂の天井画を完成した年であり、ミケランジェロが世話になったメディチ家のロレンツォの息子でピエロの弟、ジョヴァンニがスペイン軍とともにフィレンツェでクーデターを起こし、フィレンツェを再びメディチ家支配とした年である。ジョヴァンニは翌年の法王ユリウス2世の没後に法王レオ10世として即位する。
当時イタリアは独立の都市国家に分かれ、国家内の権力闘争、国家間の勢力争いに加え、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国のドイツなどイタリアの富をめぐっての争いで不安定な状態が続いていた。この詩にある、剣、兜、盾、槍はそのような争いの状態を指すと同時に、法王ユリウス2世が「軍事的性格をもち、馬上みずから戦場に立ってしばしば敵と戦った」という性格も指しているのだろう。「当時の法王は一般俗権君主とまったくおなじような世俗人物であり、おなじような政治行為に熱中した」(会田雄次著「ミケランジェロ」PHP研究所1996年)
「裕福な衣装」はNims氏の本では「三角帽」となっている。「マント」と英訳されているものもありキリスト教の聖職者が儀式で着用する長くゆったりしたマント型の外衣で、ここでは法王ユリウス2世を指しているようだ。「他の運命」「他の色合い」とは他の権力者、あるいは法王、による支配や命令を指しているのだろうと思う。実際、法王が替わるごとに、または法王の気が変わるごとにそれまでの仕事を中断させられ、新しい仕事を命ぜられた。クーデターを起こして権力を再び取り戻したメディチ家のことかもしれない。
また、会田氏によると当時の人々が束縛として意識したのは古い社会の道徳原理となっていた教会とその掟で、彼らの癪にさわったのは、とくに人間性に反した道徳律であったという。
「人間性に反した道徳律なのだから、完全に実行はほとんど不可能である。だから教会の僧侶たちは、とりたてて生臭坊主とはいえないような人でも、人間的生活を営んでいる限り、道徳を一般の人々に強制するくせに、自分自身は平気でそむいている偽善者と見らることになってしまう。
教会のこの道徳律の二本の柱は、一本は利子禁止などにあらわれている金儲け、つまり利潤の追求を絶対悪とする教えと、もう一本は人間の性的欲望を悪とする教えである。… しかも僧侶たちは、一般の人々にはそれを強いながら、自分たちは贅沢三昧にふけろうとしていたのである。」(P27)
Nims氏の指摘する通り教会の腐敗と好戦的なユリウス2世への不満を表した詩のようだ。ミケランジェロは彫刻家としてやっていくには教会や法王、大商人のような資金を提供してくれる権力者が必要だったろう。表面上はうまく対応して心の内では嫌悪していた。そしてまた「芸術は貴人の行使すべきもので、民衆とはかかわりのないものだ」(P104)と言っているように民衆の支持者でもない。後の逃亡というフィレンツェ共和国への裏切り行為によって民衆からも反感を買うようになっただろう。孤立・孤独と絶望は深まっていく。
ショスタコーヴィチの曲は「交響曲第14番死者の歌」の8番「コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージャ・コサックの返事」に似て怒りをぶちまける。
主にセロフの解説書の英訳を使っていて意味が通じなかったが、5行目にnotが抜けていることがノセダ盤の解説を見てわかった。それにしても訳しにくい。
ミケランジェロ組曲 close
ミケランジェロ組曲 1 真実 Michelangelo Suite Truth / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 1 真理 (2) Michelangelo Suite Truth / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 2 朝 Michelangelo Suite Morning / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 3 愛 Michelangelo Suite Love / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 4 別れ Michelangelo Suite Separation / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 5 怒り Michelangelo Suite Wrath / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 6 ダンテ Michelangelo Suite Dante / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 7 流刑者に Michelangelo Suite To the Exiled / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 8 創造 Michelangelo Suite Creativity / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 9 夜 Michelangelo Suite Night / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 10 死 Michelangelo Suite Death / Shostakovich
ミケランジェロ年表 close
西暦 |
年齢 |
ミケランジェロ |
法王名・一般事項 |
1475
|
0
|
3月6日中部フィレンツェ共和国の力プレーゼ(現アレッツ県)に生まれる。3月末近郊セッティニアーノの石工に里子。 |
シクストゥスⅣ |
1481 |
6 |
母死去。 |
|
1485 |
10 |
父再婚。 |
|
1488
|
13 |
4月父の反対を押し切ってドメニコ・ギルランダイオ工房に入門。 |
インノセントⅦ |
1490 |
15 |
ロレンツォ・デ・メディチ邸に寄宿を許され、教養をつむ。「階段の聖母」「ケンタウロスとラピタイ族の戦い」仲間のトリジァーニの絵を罵り、殴られて鼻の骨を折る。 |
|
1492 |
17 |
ロレンツオ・デ・メディチ没、父の元へ戻る。「磔刑」を制作。サント・スピリト聖堂で人体解剖。 |
コロンブス新大陸発見。 |
1493 |
18 |
サヴォナローラの説教を聞き感動する。 |
|
1494 |
19
|
1月ロレンツォの息子ピエロ、メディチの庭に雪の彫像を作らせる。再びメディチ家に住む。10月ヴェネツィアへ脱出、ついでボローニャへ。 |
アレクサンデルⅥ フランス王シャルル8世フィレンツェに来襲。ピエロ逃亡。フィレンツェ共和制。サヴォナローラが独裁的支配。 |
1495 |
20
|
フィレンツェへ戻る。レオナルド・ダ・ヴィンチと会う。 |
|
1497 |
22
|
「酔えるバッカス」。フランス人枢機卿ジャン・ピレール・ド・ラグロラ「ヴァチカンのピエタ」依頼。6月ローマへ。 |
|
1498 |
23 |
「ヴァチカンのピエタ」 |
ヴァスコ・ダ・ガマ、インド航路発見。 フィレンツェではサヴォナローラ派と反対派の対立激化、4月サン・マルコ聖堂包囲、5月サヴォナローラ処刑。 |
1501 |
26
|
春フィレンツェへ帰る。5月シエナ大聖堂ピッコローミニ祭壇聖像制作契約(1504年までに4体制作)。8月ドゥオーモ大聖堂造営局と毛織物組合より「ダヴィデ」依頼。9月制作開始。この頃「キリストの埋葬」 |
|
1503 |
28 |
4月フィレンツェ、ドゥオーモ大聖堂のために「十二使徒」契約。「トンド・タッディ」 |
ピウスⅢ フィレンツェ、ソデリーニが終身の統領に選ばれる。 |
1504 |
29 |
6月「ダヴィデ」市政庁前に設置。「ブリュージュの聖母子」、絵画「トンド・ドーニ」制作。 |
ユリウスⅡ |
1505 |
30
|
「トンド・ピッティ」。ユリウスⅡの招きでローマへ。ユリウスⅡ墓廟制作を依頼されカッラーラに滞在。 |
|
1506 |
31
|
ユリウスII心変りして墓計画を廃棄。4月フイレンツェへ帰る。11月ボローニアでユリウスIIと和解。 |
|
1507 |
32
|
ボローニァで巨大なユリウスII青銅像制作に従事。4月蠟鋳型、7月鋳造。 |
|
1508 |
33
|
3月「ユリウスII世像」ボローニア、サン・ペトロニオ聖堂正面に設置(1511年12月破壊される)。3月か4月ローマへ。システィーナ礼拝堂天井画契約、制作制作開始。「十二使徒」契約破棄。 |
|
1509 |
34 |
8月システィーナ礼拝堂天井画ほぼ半分完成。9月一年以上途絶えている支払交渉のため、ユリウスⅡに会いにボローニャへ。10月以降ローマ、システィーナ礼拝堂天井画制作再開。 |
|
1511 |
36 |
ボローニャのユリウス像が破壊され、大砲に鋳られる。8月システィーナ礼拝堂天井画除幕式 |
|
1512 |
37 |
10月システィーナ礼拝堂天井画完成。 |
メディチ家がクーデタでフィレンツェに復帰。マキャベリら追放。 |
1513 |
38 |
ユリウスⅡ死去、遺族と墓制作の契約(第二次)。「モーゼ」像と二つの「囚われ人」像着手。 |
レオⅩ |
1516 |
41 |
7月ユリウスII墓廟、第三次契約。9月から墓廟制作のためカッラーラに滞在。12月メディチ家出身の法王レオXよりローマに召ばれフィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂正面の制作依頼。そのためフィレンツェへ。そこでドゥオーモ大聖堂のドームの鼓胴と回廊の改装を依頼される。カッラーラへ戻る。 |
|
1517 |
42
|
引き続きカッラーラで大理石切出しに従事。8月病気になる。 |
ルター九五ヵ条の意見書を発表。宗教改革の端緒。 |
1518 |
43 |
1月レオXとサン・ロレンツォ聖堂正面建設契約。3月新しい大理石産地ピエトラサンタへ行く。4月~9月カッラーラとセラヴェッツァ間の大理石運搬路開拓。 |
|
1519 |
44 |
|
マゼラン世界就航に出発。レオナルド死。 |
1520 |
45 |
3月10日レオⅩ、サン・ロレンツォ聖堂正面建築中止命令。11月8日サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂新聖具室の墓廟建築を依頼。「勝利者」。 |
ラファエロ死。 |
1521 |
46 |
12月1日レオⅩ死去。ミケランジェロはメディチ家礼拝堂墓廟のためカッラーラで大理石採掘に従事。ユリウスII遺族墓廟遅延を提訴。 |
|
1523 |
48 |
4体の「囚われ人」。サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂墓着手。「聖母子」。 |
ハドリアヌスⅥ |
1524 |
49
|
1月クレメンスVIIにローマへ召び出される。2月クレメンスVII提供の給与・住宅を拒否。フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂内ラウレンチアーナ図書館建設依頼。メディチ家礼拝堂・ロレンツォ墓の「ジュリアーノ」「ロレンツォ」「夜明け」「夕」像着手。 |
クレメンスVII |
1525 |
50 |
ユリウスⅡ遺族の訴訟再発。 |
|
1526 |
51 |
ユリウス墓の第四次設計案を遺族は拒否。 メディチ家墓の「夜」「昼」像着手。 |
|
1527 |
52 |
|
5月神聖ローマ帝国カルルVローマ占領。傭兵による「ローマの掠奪」。フィレンツェ市民メディチ家を追放。再びフィレンツェ共和国成立。 |
1528 |
53 |
フィレンツェ市防衛会議参加。フィレンツェ共和国依頼の「へラクレスとカクス」制作。6月弟ブォナロート死亡。 |
|
1529 |
54 |
1月フィレンツェを防衛するための「軍事九人委員会」に選ばれ、4月「築城総司令官」に就任。7~8月フェッラーラの防衛施設を視察。フィレンツェに戻った9月末ヴェネツィアに逃走。滞在中、リアルト橋の新設計案を依頼される。市政庁や友人らの懇願により11月再びフィレンツェへ戻って防衛工事を指揮。 |
法王・皇帝・メディチ軍フィレンツェに来襲。 |
1530 |
55 |
フィレンツェでヴァローリのために「ダヴィデ/アポロ」制作。メディチ家の刺客に狙われる。メディチ家礼拝堂の地下に潜伏。11月法王のとりなしで、メディチ家の仕事再開。弟子アントーニオ・ミーニ、フランスへ。 |
8月フィレンツェ共和国は法王軍に降伏。フィレンツェ公国成立。メディチ家復活。 |
1531 |
56 |
父ロドヴィコ死去。「夜明け」と「夜」ほぼ現在の形まで完成。夏重病に罹る。ミケランジェロとメディチ家の関係悪化。 |
アレッサンドロ・メディチ、フィレンツェ公となる。 |
1532 |
57 |
4月29日ユリウスII墓廟の新しい契約、彫像6体のみとなる。その年の終り頃トンマーゾ・デ・カヴァリエーリと出会う。カヴァリエーリのために素描制作。終生交流続く。 |
|
1533 |
58 |
9月フランスへ行く直前のクレメンスVIIと会見。システィーナ礼拝堂祭壇壁画「最後の審判」と入口壁に「反逆天使の失墜」制作を約束。10月~翌5月ローマに滞在。 |
|
1534 |
59
|
3月「反逆天使の失墜」は契約は破棄。9月ローマに移住、9月クレメンスVII死去。「最後の審判」計画中断。ユリウスⅡ墓廟を再開。 |
パウルⅢ |
1535 |
60 |
4月「最後の審判」足場架設。9月新法王「最後の審判」契約を追認、ミケランジェロをヴァチカン宮の首席画家、膨刻家および建築家に任命。ヴィットリア・コロンナを識る。 |
|
1536 |
61 |
夏頃再び「最後の審判」に着手か。11月バウルスⅢの法命によりユリウスⅡ墓廟から一時解放。 |
|
1537 |
62 |
カンビドリオ広場整備を依頼される。 |
フィレンツェ、トスカナ公国となり、共和政終わる。 |
1538 |
63 |
10月から1541年にかけてヴィットリア・コロンナのために素描、詩を制作。 |
|
1539 |
64 |
「ブルータス像」この頃着手か。 |
|
1540 |
65 |
12月「最後の審判」上半分完成。 |
|
1541 |
66 |
「最後の審判」制作中足場から落ち怪我。10月「最後の審判」の覆いを取り除く。ユリウスII墓廟再着手。 |
カルヴィン、ジュネーブで宗教改革。 |
1542 |
67 |
8月ユリウスⅡ墓廟の最終契約。10月以降パオリーナ礼拝堂壁画「パウロの回心」着手。 |
|
1545 |
70 |
2月にユリウスII墓廟に彫像設置か。その頃ヴィットリアのために素描「磔刑」「ピエタ」図など。7月パオリーナ礼拝堂「パウロの回心」完成。ローマ滞在中のティツィアーノをヴァザーリと訪問。アッレティーノ「最後の審判」批判の手紙。 |
|
1546 |
71 |
1月病気。3月パオリーナ礼拝堂壁画「ペテ口の磔刑」着手。ファルネーゼ宮建設着手。10月サン・ピエトロ大聖堂建築監督に就任。詩集の出版を考える。 |
|
1547 |
72 |
2月ヴィットリア・コロンナ死去。サン・ピエトロ大聖堂第二案模型。「フィレンツェのピエタ」この頃着手か。 |
|
1548 |
73 |
弟ジョヴァン・シモーネ死亡。 |
|
1549 |
74 |
3月から6月尿結石症に苦しむ。ベネデット・ヴァルキ、ミケランジェロのソネットを注釈した「二つの講義」出版。 |
|
1550 |
75 |
3月「ペテロの磔刑」完成。ユリウスⅢからサン・ジョヴァンニ大聖堂、モントリオーニ聖堂の礼拝堂墓建設などの相談。ヴァザーリ「ルネサンス美術家列伝」初版出版。 |
マルケルスⅡ |
1551 |
76 |
サン・ロッコ聖堂のそばに建てるユリウスⅢの館の模型着手(~1552年2月) |
|
1552 |
77 |
カンピドリオ広場第一次整備終了。 |
|
1553 |
78 |
コンディヴィ「ミケランジェロ伝」出版。甥レオナルド(弟ブォナロート長男)結婚。 |
|
1554 |
79 |
イエズス会聖堂(ローマ)の設計。 |
|
1555 |
80 |
パウルスIV、サン・ピエトロ大聖堂のドーム建築を依頼(サン・ロレンツォ聖堂ラウレンチアーナ図書館階段完成)。「パレストリーナのピエタ」制作この頃か。5月結石症再発。弟シジスモンド死亡。12月ミーニの後の弟子ウルビーノ死去。 |
パウルスⅣ |
1556 |
81 |
スポレートの山へ避難(→10月末) |
9月スペイン軍ローマへ接近 |
1557 |
82 |
8月サン・ピエトロ大聖堂ドームの模型(第三案)(1561年11月完成)。7月通風に苦しむ。ルドヴィコ・ドルチェ「絵画問答」を著しミケランジェロ批判。 |
|
1559 |
84 |
サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂、サンタ・マリア・マッショール望堂内スフォルツァ礼拝堂設計の依頼。「ロンダニーニのピエタ」着手この頃か。 |
|
1560 |
85 |
ピウスⅣからポルタ・ピア(ピアの門)の設計、ディオクレティアヌス帝大浴場遺跡にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティリ聖堂建築設計の依頼。フィレンツェからサン・トリニティ橋設計依頼。 |
ピウスⅣ |
1563 |
88 |
1月フィレンツェ、アカデミア・デル・ディゼーニョの名誉院長。この頃「磔刑」制作説あり。1545年12月から開かれていた対抗宗教改革のためのトント公会議はこの年12月に閉会。 |
|
1564 |
88 |
1月トレント公会議の決議をピウスIV承認、システィーナ礼拝堂壁画「最後の審判」の猥褻とみなした部分を「覆い隠す」決定。2月18日ミケランジェロ、ローマで死去。3月11日甥レオナルドによって遺体はフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬。 |
|
木下長弘氏、会田雄次氏、コンディヴィ高田博厚氏訳の本を参考にした
today today close
diary 2024-9-15(日) 月齢 12.0 晴れ・雨
コープマンのバッハ・カンタータBWV 170、102、79、バッハ・管弦楽作品集からマリナーの演奏でフーガの技法、音楽の捧げ物、ドビュッシー・作品集からペレアスとメリザンド、リア王、アッシャー家の凋落、聖セバスチャンの殉教を聴く。2桁の掛け算は20題くらい。
DAC経由のワイアレスレス・トラブルスピーカーKEF LS50 Wireles IIは今日は正常に聞けた。
ミケランジェロ組曲5怒りをアップ。
不快にさせる広告は見たくないどんなに不快でも広告は見たい