ショスタコーヴィチ Dmitri Shostakovich(1906-1975)
ミケランジェロ組曲 9 夜 Suite on Words by Michelangelo, Op. 145a: 9 Night (1974)
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ミケランジェロ組曲 9 夜 Suite on Words by Michelangelo, Op. 145a: 9 Night
Vot eta noch, chto tak spokojno spit |
ここに安らかに眠るこの夜は、 |
Pered toboju, - angela sozdanje. |
天使の創造物 |
Ona iz kamn'a, no v nej jest' dyhanje: |
彼女は石でできているが、息をし蘇ることができる |
Lish razbudi, - ona zagovorit. |
起こしてみよ、すぐに話しかけるだろう |
|
|
Mne sladko spat', a pusche kamnem byt', |
この心地よい眠りは石であることでさらに心地よいのだ |
Kogda krugom pozor i prestuplenje: |
周りが恥と罪だけの時代に |
Ne chuvstvovat', ne videt' - oblegchenje, |
感じたり見たりできないときこそ安らぎがある |
Umolkni zh, drug, k chemu men'a budit'? |
だから静かに祈れ、友よ、いったいなぜ私を起こそうというのか |
(ネステレンコ、セロフ、ユロフスキ、ディスカウ、レイフェルクス他の解説の英訳による)
この詩の前半はミケランジェロの詩ではなく、メディチ廟のために造られた「夜」の像へのストロッツィという詩人の詩で、後半がそれに対するミケランジェロの返事の詩になっている。
John Fredrick Nims著 The Complete Poems of Michelangeloでは247番で1545-46年とあり、藤井氏のサイトでは1545年となっている。ミケランジェロは70歳。Nims氏の注には次のように書かれている。
「4行詩 ミケランジェロがフィレンツェのメディチ廟への夜の像を彫ってから20数年後、彼はジョヴァンニ・ディ・カルロ・ストロッツィのこの像を讃える4行詩に対する有名な返事を書いた。 「罪と恥の世界」は、コジモ・デ・メディチの権威主義的な支配に対するミケランジェロの反対を表明したものだ。モンターレは、「ミケランジェロの崇高さの最も崇高なアイデアを与える詩で、世界のすべての言語に翻訳された4行詩」と賞賛している。これは、彼の芸術作品の声が話者である唯一の詩である(13と14の散文を数えない限り)。」
コジモ・ディ・メディチは1464年に亡くなっているからミケランジェロとは直接関係はないが、フィレンツェのメディチ家支配を確立した人物らしい。
ミケランジェロの「夜」の像は、メディチ廟にある「朝」「昼」「夕」「夜」の4つの像の一つ。木下長宏氏は次のように述べている。
「メディチ家礼拝堂の四つの寓意像も、その身振りによって示唆するものは、「囚われ人」の仲間であり、それぞれに与えられた「時」(一日)の寓意であるということによって、「人類という存在の誕生の瞬間」の姿を伝えようとしているシスティーナ礼拝堂の仲間となる。いや、この「夜明け」「昼」「夕」「夜」は一日の「時」なのではない。「創世記」第一章にある<神は光を昼と名づけ、やみをよると名づけられた。夕があり朝があった>の「昼」「夜」「夕」「朝」の寓意像ではないか。それに気づくときこの四つの「寓意」像はさらに「人類誕生の瞬間」を描くシスティーナの天井画と呼応し合う。終り(死)は始まり(誕生)とつながる。 システィーナ礼拝堂の天井画は、聖書の記述を注釈するという形で、人間が誰も目撃したことのない、天地創造と人類誕生の緒瞬間を絵にしようとした。それから、10年後、ミケランジェロは、人間はどこから来たのかという問いを、聖書本文の絵解きという方法ではなく、「存在するもの」のかたちと動きそのものを探るという方法で追求しはじめた。」(木下長弘著「ミケランジェロ」中公新書2232、2013年P122)
この四つの像が作られたのは、フィレンツェ共和国が法王・皇帝・メディチ軍に攻められ降伏した頃であり、ミケランジェロが裏切る形になったフィレンツェ市民、法王、メディチのどちらの側からも敵視されたり反感を買った時期だろう。さらに愛する弟、父親を相次いで亡くした。自分の弱さ、卑屈さを自覚し、絶望し、自分自身に愛想をつかした。
「(「朝」は)苦痛だけのこの人の世に、無理やり生まれさせられた運命のつらさへの叫び声である。苦悩の人生はこうして開かれ、努力と忍耐との「昼」「夕」の男子像、それに苦痛に満ちた「夜」の眠りがくる。「夜」の裸婦はつかれはて眠っている老女の姿である。腹部の深い皺と、豊かだがゆがんだ乳房は女の生涯の苦労の刻印である。その眠りは一見して人に心地よい熟睡でないことを痛感せしめる。寝ているときでさえ、痛みと苦悶を忘れやらぬ姿である。それはなによりもミケランジェロの苦痛の表現である。「鶏の鳴くまでに三度われを否定するであろう」と師より予言されたペテロは、そのとおり師を裏切り、鶏鳴を聞きつつ泣いた。ミケランジェロのなげきはそのペテロのなげきである。この墓廟にたいするもの、だれがその心を思いやらないでいられるであろうか。
しかし、だれもそれを悟らなかったのである。… 詩人たちでさえ、その清新さを失い、追従を事とするようになってしまった。誰ひとりとしてミケランジェロを理解しなかった。ジョヴァンニ・ストロッツィは「夜」をみて、途方のない詩を献じた。…
十六世紀宮廷の美術館賞界は、ただ実物通りとか、装飾の豊かさとか、着想の奇抜さだけで判断する、まったく無意味な眼をもっていたのである。ミケランジェロはそれにたいし、皮肉とも詠嘆ともつかない調子で答えた。」(会田雄次著「ミケランジェロ」PHP研究所1996年P176-178)
ショスタコーヴィチの音楽は静かなそして苦悩の、詠嘆の、夜の音楽。
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ミケランジェロ組曲 1 真実 Michelangelo Suite Truth / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 1 真理 (2) Michelangelo Suite Truth / Shostakovich
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ミケランジェロ組曲 3 愛 Michelangelo Suite Love / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 4 別れ Michelangelo Suite Separation / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 5 怒り Michelangelo Suite Wrath / Shostakovich
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ミケランジェロ組曲 7 流刑者に Michelangelo Suite To the Exiled / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 8 創造 Michelangelo Suite Creativity / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 9 夜 Michelangelo Suite Night / Shostakovich
ミケランジェロ組曲 10 死 Michelangelo Suite Death / Shostakovich
ミケランジェロ年表 close
西暦 |
年齢 |
ミケランジェロ |
法王名・一般事項 |
1475
|
0
|
3月6日中部フィレンツェ共和国の力プレーゼ(現アレッツ県)に生まれる。3月末近郊セッティニアーノの石工に里子。 |
シクストゥスⅣ |
1481 |
6 |
母死去。 |
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1485 |
10 |
父再婚。 |
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1488
|
13 |
4月父の反対を押し切ってドメニコ・ギルランダイオ工房に入門。 |
インノセントⅦ |
1490 |
15 |
ロレンツォ・デ・メディチ邸に寄宿を許され、教養をつむ。「階段の聖母」「ケンタウロスとラピタイ族の戦い」仲間のトリジァーニの絵を罵り、殴られて鼻の骨を折る。 |
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1492 |
17 |
ロレンツオ・デ・メディチ没、父の元へ戻る。「磔刑」を制作。サント・スピリト聖堂で人体解剖。 |
コロンブス新大陸発見。 |
1493 |
18 |
サヴォナローラの説教を聞き感動する。 |
|
1494 |
19
|
1月ロレンツォの息子ピエロ、メディチの庭に雪の彫像を作らせる。再びメディチ家に住む。10月ヴェネツィアへ脱出、ついでボローニャへ。 |
アレクサンデルⅥ フランス王シャルル8世フィレンツェに来襲。ピエロ逃亡。フィレンツェ共和制。サヴォナローラが独裁的支配。 |
1495 |
20
|
フィレンツェへ戻る。レオナルド・ダ・ヴィンチと会う。 |
|
1497 |
22
|
「酔えるバッカス」。フランス人枢機卿ジャン・ピレール・ド・ラグロラ「ヴァチカンのピエタ」依頼。6月ローマへ。 |
|
1498 |
23 |
「ヴァチカンのピエタ」 |
ヴァスコ・ダ・ガマ、インド航路発見。 フィレンツェではサヴォナローラ派と反対派の対立激化、4月サン・マルコ聖堂包囲、5月サヴォナローラ処刑。 |
1501 |
26
|
春フィレンツェへ帰る。5月シエナ大聖堂ピッコローミニ祭壇聖像制作契約(1504年までに4体制作)。8月ドゥオーモ大聖堂造営局と毛織物組合より「ダヴィデ」依頼。9月制作開始。この頃「キリストの埋葬」 |
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1503 |
28 |
4月フィレンツェ、ドゥオーモ大聖堂のために「十二使徒」契約。「トンド・タッディ」 |
ピウスⅢ フィレンツェ、ソデリーニが終身の統領に選ばれる。 |
1504 |
29 |
6月「ダヴィデ」市政庁前に設置。「ブリュージュの聖母子」、絵画「トンド・ドーニ」制作。 |
ユリウスⅡ |
1505 |
30
|
「トンド・ピッティ」。ユリウスⅡの招きでローマへ。ユリウスⅡ墓廟制作を依頼されカッラーラに滞在。 |
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1506 |
31
|
ユリウスII心変りして墓計画を廃棄。4月フイレンツェへ帰る。11月ボローニアでユリウスIIと和解。 |
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1507 |
32
|
ボローニァで巨大なユリウスII青銅像制作に従事。4月蠟鋳型、7月鋳造。 |
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1508 |
33
|
3月「ユリウスII世像」ボローニア、サン・ペトロニオ聖堂正面に設置(1511年12月破壊される)。3月か4月ローマへ。システィーナ礼拝堂天井画契約、制作制作開始。「十二使徒」契約破棄。 |
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1509 |
34 |
8月システィーナ礼拝堂天井画ほぼ半分完成。9月一年以上途絶えている支払交渉のため、ユリウスⅡに会いにボローニャへ。10月以降ローマ、システィーナ礼拝堂天井画制作再開。 |
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1511 |
36 |
ボローニャのユリウス像が破壊され、大砲に鋳られる。8月システィーナ礼拝堂天井画除幕式 |
|
1512 |
37 |
10月システィーナ礼拝堂天井画完成。 |
メディチ家がクーデタでフィレンツェに復帰。マキャベリら追放。 |
1513 |
38 |
ユリウスⅡ死去、遺族と墓制作の契約(第二次)。「モーゼ」像と二つの「囚われ人」像着手。 |
レオⅩ |
1516 |
41 |
7月ユリウスII墓廟、第三次契約。9月から墓廟制作のためカッラーラに滞在。12月メディチ家出身の法王レオXよりローマに召ばれフィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂正面の制作依頼。そのためフィレンツェへ。そこでドゥオーモ大聖堂のドームの鼓胴と回廊の改装を依頼される。カッラーラへ戻る。 |
|
1517 |
42
|
引き続きカッラーラで大理石切出しに従事。8月病気になる。 |
ルター九五ヵ条の意見書を発表。宗教改革の端緒。 |
1518 |
43 |
1月レオXとサン・ロレンツォ聖堂正面建設契約。3月新しい大理石産地ピエトラサンタへ行く。4月~9月カッラーラとセラヴェッツァ間の大理石運搬路開拓。 |
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1519 |
44 |
|
マゼラン世界就航に出発。レオナルド死。 |
1520 |
45 |
3月10日レオⅩ、サン・ロレンツォ聖堂正面建築中止命令。11月8日サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂新聖具室の墓廟建築を依頼。「勝利者」。 |
ラファエロ死。 |
1521 |
46 |
12月1日レオⅩ死去。ミケランジェロはメディチ家礼拝堂墓廟のためカッラーラで大理石採掘に従事。ユリウスII遺族墓廟遅延を提訴。 |
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1523 |
48 |
4体の「囚われ人」。サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂墓着手。「聖母子」。 |
ハドリアヌスⅥ |
1524 |
49
|
1月クレメンスVIIにローマへ召び出される。2月クレメンスVII提供の給与・住宅を拒否。フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂内ラウレンチアーナ図書館建設依頼。メディチ家礼拝堂・ロレンツォ墓の「ジュリアーノ」「ロレンツォ」「夜明け」「夕」像着手。 |
クレメンスVII |
1525 |
50 |
ユリウスⅡ遺族の訴訟再発。 |
|
1526 |
51 |
ユリウス墓の第四次設計案を遺族は拒否。 メディチ家墓の「夜」「昼」像着手。 |
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1527 |
52 |
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5月神聖ローマ帝国カルルVローマ占領。傭兵による「ローマの掠奪」。フィレンツェ市民メディチ家を追放。再びフィレンツェ共和国成立。 |
1528 |
53 |
フィレンツェ市防衛会議参加。フィレンツェ共和国依頼の「へラクレスとカクス」制作。6月弟ブォナロート死亡。 |
|
1529 |
54 |
1月フィレンツェを防衛するための「軍事九人委員会」に選ばれ、4月「築城総司令官」に就任。7~8月フェッラーラの防衛施設を視察。フィレンツェに戻った9月末ヴェネツィアに逃走。滞在中、リアルト橋の新設計案を依頼される。市政庁や友人らの懇願により11月再びフィレンツェへ戻って防衛工事を指揮。 |
法王・皇帝・メディチ軍フィレンツェに来襲。 |
1530 |
55 |
フィレンツェでヴァローリのために「ダヴィデ/アポロ」制作。メディチ家の刺客に狙われる。メディチ家礼拝堂の地下に潜伏。11月法王のとりなしで、メディチ家の仕事再開。弟子アントーニオ・ミーニ、フランスへ。 |
8月フィレンツェ共和国は法王軍に降伏。フィレンツェ公国成立。メディチ家復活。 |
1531 |
56 |
父ロドヴィコ死去。「夜明け」と「夜」ほぼ現在の形まで完成。夏重病に罹る。ミケランジェロとメディチ家の関係悪化。 |
アレッサンドロ・メディチ、フィレンツェ公となる。 |
1532 |
57 |
4月29日ユリウスII墓廟の新しい契約、彫像6体のみとなる。その年の終り頃トンマーゾ・デ・カヴァリエーリと出会う。カヴァリエーリのために素描制作。終生交流続く。 |
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1533 |
58 |
9月フランスへ行く直前のクレメンスVIIと会見。システィーナ礼拝堂祭壇壁画「最後の審判」と入口壁に「反逆天使の失墜」制作を約束。10月~翌5月ローマに滞在。 |
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1534 |
59
|
3月「反逆天使の失墜」は契約は破棄。9月ローマに移住、9月クレメンスVII死去。「最後の審判」計画中断。ユリウスⅡ墓廟を再開。 |
パウルⅢ |
1535 |
60 |
4月「最後の審判」足場架設。9月新法王「最後の審判」契約を追認、ミケランジェロをヴァチカン宮の首席画家、膨刻家および建築家に任命。ヴィットリア・コロンナを識る。 |
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1536 |
61 |
夏頃再び「最後の審判」に着手か。11月バウルスⅢの法命によりユリウスⅡ墓廟から一時解放。 |
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1537 |
62 |
カンビドリオ広場整備を依頼される。 |
フィレンツェ、トスカナ公国となり、共和政終わる。 |
1538 |
63 |
10月から1541年にかけてヴィットリア・コロンナのために素描、詩を制作。 |
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1539 |
64 |
「ブルータス像」この頃着手か。 |
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1540 |
65 |
12月「最後の審判」上半分完成。 |
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1541 |
66 |
「最後の審判」制作中足場から落ち怪我。10月「最後の審判」の覆いを取り除く。ユリウスII墓廟再着手。 |
カルヴィン、ジュネーブで宗教改革。 |
1542 |
67 |
8月ユリウスⅡ墓廟の最終契約。10月以降パオリーナ礼拝堂壁画「パウロの回心」着手。 |
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1545 |
70 |
2月にユリウスII墓廟に彫像設置か。その頃ヴィットリアのために素描「磔刑」「ピエタ」図など。7月パオリーナ礼拝堂「パウロの回心」完成。ローマ滞在中のティツィアーノをヴァザーリと訪問。アッレティーノ「最後の審判」批判の手紙。 |
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1546 |
71 |
1月病気。3月パオリーナ礼拝堂壁画「ペテ口の磔刑」着手。ファルネーゼ宮建設着手。10月サン・ピエトロ大聖堂建築監督に就任。詩集の出版を考える。 |
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1547 |
72 |
2月ヴィットリア・コロンナ死去。サン・ピエトロ大聖堂第二案模型。「フィレンツェのピエタ」この頃着手か。 |
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1548 |
73 |
弟ジョヴァン・シモーネ死亡。 |
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1549 |
74 |
3月から6月尿結石症に苦しむ。ベネデット・ヴァルキ、ミケランジェロのソネットを注釈した「二つの講義」出版。 |
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1550 |
75 |
3月「ペテロの磔刑」完成。ユリウスⅢからサン・ジョヴァンニ大聖堂、モントリオーニ聖堂の礼拝堂墓建設などの相談。ヴァザーリ「ルネサンス美術家列伝」初版出版。 |
マルケルスⅡ |
1551 |
76 |
サン・ロッコ聖堂のそばに建てるユリウスⅢの館の模型着手(~1552年2月) |
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1552 |
77 |
カンピドリオ広場第一次整備終了。 |
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1553 |
78 |
コンディヴィ「ミケランジェロ伝」出版。甥レオナルド(弟ブォナロート長男)結婚。 |
|
1554 |
79 |
イエズス会聖堂(ローマ)の設計。 |
|
1555 |
80 |
パウルスIV、サン・ピエトロ大聖堂のドーム建築を依頼(サン・ロレンツォ聖堂ラウレンチアーナ図書館階段完成)。「パレストリーナのピエタ」制作この頃か。5月結石症再発。弟シジスモンド死亡。12月ミーニの後の弟子ウルビーノ死去。 |
パウルスⅣ |
1556 |
81 |
スポレートの山へ避難(→10月末) |
9月スペイン軍ローマへ接近 |
1557 |
82 |
8月サン・ピエトロ大聖堂ドームの模型(第三案)(1561年11月完成)。7月通風に苦しむ。ルドヴィコ・ドルチェ「絵画問答」を著しミケランジェロ批判。 |
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1559 |
84 |
サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂、サンタ・マリア・マッショール望堂内スフォルツァ礼拝堂設計の依頼。「ロンダニーニのピエタ」着手この頃か。 |
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1560 |
85 |
ピウスⅣからポルタ・ピア(ピアの門)の設計、ディオクレティアヌス帝大浴場遺跡にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティリ聖堂建築設計の依頼。フィレンツェからサン・トリニティ橋設計依頼。 |
ピウスⅣ |
1563 |
88 |
1月フィレンツェ、アカデミア・デル・ディゼーニョの名誉院長。この頃「磔刑」制作説あり。1545年12月から開かれていた対抗宗教改革のためのトント公会議はこの年12月に閉会。 |
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1564 |
88 |
1月トレント公会議の決議をピウスIV承認、システィーナ礼拝堂壁画「最後の審判」の猥褻とみなした部分を「覆い隠す」決定。2月18日ミケランジェロ、ローマで死去。3月11日甥レオナルドによって遺体はフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬。 |
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木下長弘氏、会田雄次氏、コンディヴィ高田博厚氏訳の本を参考にした
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diary 2024-9-25(水) 月齢 22.0 曇り・雨
コープマンのバッハ・カンタータBWV 171、51、145、188、バッハ・管弦楽作品集からオーボエ協奏曲1056から最後まで聴く。2桁の掛け算は10題くらい。
DAC経由のワイアレスレス・トラブルスピーカーKEF LS50 Wireles IIは今日は正常に聞けた。
ミケランジェロ組曲 9 夜をアップ。
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