ベンジャミン・ブリテン Benjamin Britten (1913~1976)
ミケランジェロの7つのソネット Seven Sonnets of Michelangelo Op22 (1940)
(6) ソネット32 Sonnet XXXII
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ソネット32 Sonnet XXXII
S'un casto amor, s'una pietà superna, |
もし愛が純潔で、思いやりの心が神のように素晴らしいものなら |
s'una fortuna infra dua amanti equale, |
もし幸運を愛する二人で分かち合えたら |
s'un'aspra sorte all'un dell'altro cale, |
もし一方の苦い運命を二人で分かち合えたら |
s'un spirto, s'un voler duo cor governa; |
そしてもし一つの霊が二人の心を支配するなら |
|
|
s'un'anima in duo corpi è fatta etterna, |
もし二人の身体の中の一つの魂が永遠で |
ambo levando al cielo e con pari ale; |
同じ翼で二人とも天国に昇るなら |
s'amor c'un colpo e d'un dorato strale |
もし金色の矢で一撃され、愛が燃え上がり |
le viscer di duo petti arda e discerna; |
二人の心の芯まで貫いたら |
|
|
s'amar l'un l'altro, e nessun se medesmo, |
もしお互いに愛し合い自分自身を忘れ |
d'un gusto e d'un diletto, a tal mercede, |
二人の意志が同じ目的に向かって努力する見返りに |
c'a un fin voglia l'uno e l'altro porre; |
一つの満足や喜びがあるとしたら |
|
|
se mille e mille non sarien centesmo |
もし何千ものことが百のことにもならないとしたら |
a tal nodo d'amore, a tanta fede; |
そのような愛の絆、そのような信頼にとって |
e sol l'isdegno il può rompere e sciorre. |
単なる怒りがそれを壊し溶かし去ってしまうことがあるだろうか |
(マルティノー、ファンのCD解説の英訳とNims氏の英訳による)
この詩はJohn Fredrick Nims氏のThe Complete Poems of Michelangeloの中の59番目の詩で、注には「1532年。ソネット。カヴァリエリへ。」とだけ書かれている。愛がすべてで夢中になっている詩のようだ。ブリテンの曲は快活で力強い。
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ミケランジェロ年表 close
西暦 |
年齢 |
ミケランジェロ |
法王名・一般事項 |
1475
|
0
|
3月6日中部フィレンツェ共和国の力プレーゼ(現アレッツ県)に生まれる。3月末近郊セッティニアーノの石工に里子。 |
シクストゥスⅣ |
1481 |
6 |
母死去。 |
|
1485 |
10 |
父再婚。 |
|
1488
|
13 |
4月父の反対を押し切ってドメニコ・ギルランダイオ工房に入門。 |
インノセントⅦ |
1490 |
15 |
ロレンツォ・デ・メディチ邸に寄宿を許され、教養をつむ。「階段の聖母」「ケンタウロスとラピタイ族の戦い」仲間のトリジァーニの絵を罵り、殴られて鼻の骨を折る。 |
|
1492 |
17 |
ロレンツオ・デ・メディチ没、父の元へ戻る。「磔刑」を制作。サント・スピリト聖堂で人体解剖。 |
コロンブス新大陸発見。 |
1493 |
18 |
サヴォナローラの説教を聞き感動する。 |
|
1494 |
19
|
1月ロレンツォの息子ピエロ、メディチの庭に雪の彫像を作らせる。再びメディチ家に住む。10月ヴェネツィアへ脱出、ついでボローニャへ。 |
アレクサンデルⅥ フランス王シャルル8世フィレンツェに来襲。ピエロ逃亡。フィレンツェ共和制。サヴォナローラが独裁的支配。 |
1495 |
20
|
フィレンツェへ戻る。レオナルド・ダ・ヴィンチと会う。 |
|
1497 |
22
|
「酔えるバッカス」。フランス人枢機卿ジャン・ピレール・ド・ラグロラ「ヴァチカンのピエタ」依頼。6月ローマへ。 |
|
1498 |
23 |
「ヴァチカンのピエタ」 |
ヴァスコ・ダ・ガマ、インド航路発見。 フィレンツェではサヴォナローラ派と反対派の対立激化、4月サン・マルコ聖堂包囲、5月サヴォナローラ処刑。 |
1501 |
26
|
春フィレンツェへ帰る。5月シエナ大聖堂ピッコローミニ祭壇聖像制作契約(1504年までに4体制作)。8月ドゥオーモ大聖堂造営局と毛織物組合より「ダヴィデ」依頼。9月制作開始。この頃「キリストの埋葬」 |
|
1503 |
28 |
4月フィレンツェ、ドゥオーモ大聖堂のために「十二使徒」契約。「トンド・タッディ」 |
ピウスⅢ フィレンツェ、ソデリーニが終身の統領に選ばれる。 |
1504 |
29 |
6月「ダヴィデ」市政庁前に設置。「ブリュージュの聖母子」、絵画「トンド・ドーニ」制作。 |
ユリウスⅡ |
1505 |
30
|
「トンド・ピッティ」。ユリウスⅡの招きでローマへ。ユリウスⅡ墓廟制作を依頼されカッラーラに滞在。 |
|
1506 |
31
|
ユリウスII心変りして墓計画を廃棄。4月フイレンツェへ帰る。11月ボローニアでユリウスIIと和解。 |
|
1507 |
32
|
ボローニァで巨大なユリウスII青銅像制作に従事。4月蠟鋳型、7月鋳造。 |
|
1508 |
33
|
3月「ユリウスII世像」ボローニア、サン・ペトロニオ聖堂正面に設置(1511年12月破壊される)。3月か4月ローマへ。システィーナ礼拝堂天井画契約、制作制作開始。「十二使徒」契約破棄。 |
|
1509 |
34 |
8月システィーナ礼拝堂天井画ほぼ半分完成。9月一年以上途絶えている支払交渉のため、ユリウスⅡに会いにボローニャへ。10月以降ローマ、システィーナ礼拝堂天井画制作再開。 |
|
1511 |
36 |
ボローニャのユリウス像が破壊され、大砲に鋳られる。8月システィーナ礼拝堂天井画除幕式 |
|
1512 |
37 |
10月システィーナ礼拝堂天井画完成。 |
メディチ家がクーデタでフィレンツェに復帰。マキャベリら追放。 |
1513 |
38 |
ユリウスⅡ死去、遺族と墓制作の契約(第二次)。「モーゼ」像と二つの「囚われ人」像着手。 |
レオⅩ |
1516 |
41 |
7月ユリウスII墓廟、第三次契約。9月から墓廟制作のためカッラーラに滞在。12月メディチ家出身の法王レオXよりローマに召ばれフィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂正面の制作依頼。そのためフィレンツェへ。そこでドゥオーモ大聖堂のドームの鼓胴と回廊の改装を依頼される。カッラーラへ戻る。 |
|
1517 |
42
|
引き続きカッラーラで大理石切出しに従事。8月病気になる。 |
ルター九五ヵ条の意見書を発表。宗教改革の端緒。 |
1518 |
43 |
1月レオXとサン・ロレンツォ聖堂正面建設契約。3月新しい大理石産地ピエトラサンタへ行く。4月~9月カッラーラとセラヴェッツァ間の大理石運搬路開拓。 |
|
1519 |
44 |
|
マゼラン世界就航に出発。レオナルド死。 |
1520 |
45 |
3月10日レオⅩ、サン・ロレンツォ聖堂正面建築中止命令。11月8日サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂新聖具室の墓廟建築を依頼。「勝利者」。 |
ラファエロ死。 |
1521 |
46 |
12月1日レオⅩ死去。ミケランジェロはメディチ家礼拝堂墓廟のためカッラーラで大理石採掘に従事。ユリウスII遺族墓廟遅延を提訴。 |
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1523 |
48 |
4体の「囚われ人」。サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂墓着手。「聖母子」。 |
ハドリアヌスⅥ |
1524 |
49
|
1月クレメンスVIIにローマへ召び出される。2月クレメンスVII提供の給与・住宅を拒否。フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂内ラウレンチアーナ図書館建設依頼。メディチ家礼拝堂・ロレンツォ墓の「ジュリアーノ」「ロレンツォ」「夜明け」「夕」像着手。 |
クレメンスVII |
1525 |
50 |
ユリウスⅡ遺族の訴訟再発。 |
|
1526 |
51 |
ユリウス墓の第四次設計案を遺族は拒否。 メディチ家墓の「夜」「昼」像着手。 |
|
1527 |
52 |
|
5月神聖ローマ帝国カルルVローマ占領。傭兵による「ローマの掠奪」。フィレンツェ市民メディチ家を追放。再びフィレンツェ共和国成立。 |
1528 |
53 |
フィレンツェ市防衛会議参加。フィレンツェ共和国依頼の「へラクレスとカクス」制作。6月弟ブォナロート死亡。 |
|
1529 |
54 |
1月フィレンツェを防衛するための「軍事九人委員会」に選ばれ、4月「築城総司令官」に就任。7~8月フェッラーラの防衛施設を視察。フィレンツェに戻った9月末ヴェネツィアに逃走。滞在中、リアルト橋の新設計案を依頼される。市政庁や友人らの懇願により11月再びフィレンツェへ戻って防衛工事を指揮。 |
法王・皇帝・メディチ軍フィレンツェに来襲。 |
1530 |
55 |
フィレンツェでヴァローリのために「ダヴィデ/アポロ」制作。メディチ家の刺客に狙われる。メディチ家礼拝堂の地下に潜伏。11月法王のとりなしで、メディチ家の仕事再開。弟子アントーニオ・ミーニ、フランスへ。 |
8月フィレンツェ共和国は法王軍に降伏。フィレンツェ公国成立。メディチ家復活。 |
1531 |
56 |
父ロドヴィコ死去。「夜明け」と「夜」ほぼ現在の形まで完成。夏重病に罹る。ミケランジェロとメディチ家の関係悪化。 |
アレッサンドロ・メディチ、フィレンツェ公となる。 |
1532 |
57 |
4月29日ユリウスII墓廟の新しい契約、彫像6体のみとなる。その年の終り頃トンマーゾ・デ・カヴァリエーリと出会う。カヴァリエーリのために素描制作。終生交流続く。 |
|
1533 |
58 |
9月フランスへ行く直前のクレメンスVIIと会見。システィーナ礼拝堂祭壇壁画「最後の審判」と入口壁に「反逆天使の失墜」制作を約束。10月~翌5月ローマに滞在。 |
|
1534 |
59
|
3月「反逆天使の失墜」は契約は破棄。9月ローマに移住、9月クレメンスVII死去。「最後の審判」計画中断。ユリウスⅡ墓廟を再開。 |
パウルⅢ |
1535 |
60 |
4月「最後の審判」足場架設。9月新法王「最後の審判」契約を追認、ミケランジェロをヴァチカン宮の首席画家、膨刻家および建築家に任命。ヴィットリア・コロンナを識る。 |
|
1536 |
61 |
夏頃再び「最後の審判」に着手か。11月バウルスⅢの法命によりユリウスⅡ墓廟から一時解放。 |
|
1537 |
62 |
カンビドリオ広場整備を依頼される。 |
フィレンツェ、トスカナ公国となり、共和政終わる。 |
1538 |
63 |
10月から1541年にかけてヴィットリア・コロンナのために素描、詩を制作。 |
|
1539 |
64 |
「ブルータス像」この頃着手か。 |
|
1540 |
65 |
12月「最後の審判」上半分完成。 |
|
1541 |
66 |
「最後の審判」制作中足場から落ち怪我。10月「最後の審判」の覆いを取り除く。ユリウスII墓廟再着手。 |
カルヴィン、ジュネーブで宗教改革。 |
1542 |
67 |
8月ユリウスⅡ墓廟の最終契約。10月以降パオリーナ礼拝堂壁画「パウロの回心」着手。 |
|
1545 |
70 |
2月にユリウスII墓廟に彫像設置か。その頃ヴィットリアのために素描「磔刑」「ピエタ」図など。7月パオリーナ礼拝堂「パウロの回心」完成。ローマ滞在中のティツィアーノをヴァザーリと訪問。アッレティーノ「最後の審判」批判の手紙。 |
|
1546 |
71 |
1月病気。3月パオリーナ礼拝堂壁画「ペテ口の磔刑」着手。ファルネーゼ宮建設着手。10月サン・ピエトロ大聖堂建築監督に就任。詩集の出版を考える。 |
|
1547 |
72 |
2月ヴィットリア・コロンナ死去。サン・ピエトロ大聖堂第二案模型。「フィレンツェのピエタ」この頃着手か。 |
|
1548 |
73 |
弟ジョヴァン・シモーネ死亡。 |
|
1549 |
74 |
3月から6月尿結石症に苦しむ。ベネデット・ヴァルキ、ミケランジェロのソネットを注釈した「二つの講義」出版。 |
|
1550 |
75 |
3月「ペテロの磔刑」完成。ユリウスⅢからサン・ジョヴァンニ大聖堂、モントリオーニ聖堂の礼拝堂墓建設などの相談。ヴァザーリ「ルネサンス美術家列伝」初版出版。 |
マルケルスⅡ |
1551 |
76 |
サン・ロッコ聖堂のそばに建てるユリウスⅢの館の模型着手(~1552年2月) |
|
1552 |
77 |
カンピドリオ広場第一次整備終了。 |
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1553 |
78 |
コンディヴィ「ミケランジェロ伝」出版。甥レオナルド(弟ブォナロート長男)結婚。 |
|
1554 |
79 |
イエズス会聖堂(ローマ)の設計。 |
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1555 |
80 |
パウルスIV、サン・ピエトロ大聖堂のドーム建築を依頼(サン・ロレンツォ聖堂ラウレンチアーナ図書館階段完成)。「パレストリーナのピエタ」制作この頃か。5月結石症再発。弟シジスモンド死亡。12月ミーニの後の弟子ウルビーノ死去。 |
パウルスⅣ |
1556 |
81 |
スポレートの山へ避難(→10月末) |
9月スペイン軍ローマへ接近 |
1557 |
82 |
8月サン・ピエトロ大聖堂ドームの模型(第三案)(1561年11月完成)。7月通風に苦しむ。ルドヴィコ・ドルチェ「絵画問答」を著しミケランジェロ批判。 |
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1559 |
84 |
サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂、サンタ・マリア・マッショール望堂内スフォルツァ礼拝堂設計の依頼。「ロンダニーニのピエタ」着手この頃か。 |
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1560 |
85 |
ピウスⅣからポルタ・ピア(ピアの門)の設計、ディオクレティアヌス帝大浴場遺跡にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティリ聖堂建築設計の依頼。フィレンツェからサン・トリニティ橋設計依頼。 |
ピウスⅣ |
1563 |
88 |
1月フィレンツェ、アカデミア・デル・ディゼーニョの名誉院長。この頃「磔刑」制作説あり。1545年12月から開かれていた対抗宗教改革のためのトント公会議はこの年12月に閉会。 |
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1564 |
88 |
1月トレント公会議の決議をピウスIV承認、システィーナ礼拝堂壁画「最後の審判」の猥褻とみなした部分を「覆い隠す」決定。2月18日ミケランジェロ、ローマで死去。3月11日甥レオナルドによって遺体はフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬。 |
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木下長弘氏、会田雄次氏、コンディヴィ高田博厚氏訳の本を参考にした
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diary 2024-10-26(土) 月齢 23.3 曇り
スズキのバッハ・カンタータBWV 65、81、83、190、リスト作品集からオルガンの演奏でアド・ノスによる幻想曲とフーガから5、6曲を聴く。システィーナ礼拝堂の追憶という作品があった。2桁の掛け算は10題くらい。ブリテンのミケランジェロの7つのソネット(6)ソネット32をアップ。カヴァリエリへ向けて愛の理想を歌ったものだろう。
不快にさせる広告は見たくないどんなに不快でも広告は見たい