ブリテン ミケランジェロの7つのソネット(7) Seven Sonnets of Michelangelo / Britten

ベンジャミン・ブリテン Benjamin Britten (1913~1976)

ミケランジェロの7つのソネット Seven Sonnets of Michelangelo Op22 (1940)

(7) ソネット24  Sonnet XXIV

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ソネット24  Sonnet XXIV

Spirto ben nato, in cui si specchia e vede 

高貴な魂よ、そこには反映されている

nelle tuo belle membra oneste e care 

美しい肢体と誠実さと慈愛が

quante natura e 'l ciel tra no' puo' fare, 

自然と天が私たちになし得るすべてが

quand'a null'altra suo bell'opra cede; 

美しい他のどの作品よりも優れている

 

 

spirto leggiadro, in cui si spera e crede 

優美な魂よ、人は希望し信じる

dentro, come di fuor nel viso appare, 

あなたの顔に現れているように

amor, pietà, mercè, cose sì rare 

稀なもの、愛と慈悲と思いやりがあることを

che mà furn' in beltà con tanta fede; 

美しさの中にこれほど実際に見つけられない

 

 

l'amor mi prende, e la beltà mi lega; 

愛が私をとらえ、美が私を束縛する

la pietà, la mercè con dolci sguardi 

優しい一瞥と共に慈悲と思いやりが私の心を満たす

ferma speranz'al cor par che ne doni.

強い希望をもって

 

 

Qual uso o qual governo al mondo niega, 

どんな法律や地上の政府が

qual crudeltà per tempo, o qual più tardi, 

なんと残酷なことがやってきたとき

c'a sì bel viso morte non perdoni?

死にその美しい顔を与えるのを禁じることができるだろうか

(マルティノー、ファンのCD解説の英訳とNims氏の英訳による)

 

この詩はJohn Fredrick Nims氏のThe Complete Poems of Michelangeloの中の41番目の詩で、注には「1528年以降。ソネット。」とだけ書かれている。ミケランジェロの詩は意味をとるのが難しく訳すのが難しい。変な日本語になってしまう。日本語に限らずだけれど。姿・形の美しさと心の美しさを讃え、その美しさも死を免れないと歌う。ブリテンの音楽も何か悟ったような落ち着きと、清々しさが漂う。

 

ブリテンは第2次大戦勃発の1939年ピアーズとアメリカに渡り、「イリュミナシオン」を発表、翌年の40年27歳にこの「ミケランジェロの7つのソネット」を発表している。41年にオペラ「ポール・バニヤン」、42年にイギリスに帰国、43年に「テノール・ホルン・弦楽合奏のためのセレナード」を作曲している。この間ピアーズとのコンサート用に民謡編曲を行っていて41年に民謡編曲集第1巻がまとめられたようだ。(デイヴィッド・マシューズ著、中村ひろ子訳「ベンジャミン・ブリテン」春秋社2013年)

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 ミケランジェロ年表  close 

西暦

年齢

ミケランジェロ

法王名・一般事項

1475

 

0

 

3月6日中部フィレンツェ共和国の力プレーゼ(現アレッツ県)に生まれる。3月末近郊セッティニアーノの石工に里子。

シクストゥスⅣ

1481

6

母死去。

 

1485

10

父再婚。

 

1488

 

13

4月父の反対を押し切ってドメニコ・ギルランダイオ工房に入門。

インノセントⅦ

1490

15

ロレンツォ・デ・メディチ邸に寄宿を許され、教養をつむ。「階段の聖母」「ケンタウロスとラピタイ族の戦い」仲間のトリジァーニの絵を罵り、殴られて鼻の骨を折る。

 

1492

17

ロレンツオ・デ・メディチ没、父の元へ戻る。「磔刑」を制作。サント・スピリト聖堂で人体解剖。

コロンブス新大陸発見。

1493

18

サヴォナローラの説教を聞き感動する。

 

1494

19

 

1月ロレンツォの息子ピエロ、メディチの庭に雪の彫像を作らせる。再びメディチ家に住む。10月ヴェネツィアへ脱出、ついでボローニャへ。

アレクサンデルⅥ

フランス王シャルル8世フィレンツェに来襲。ピエロ逃亡。フィレンツェ共和制。サヴォナローラが独裁的支配。

1495

20

 

フィレンツェへ戻る。レオナルド・ダ・ヴィンチと会う。

 

1497

22

 

「酔えるバッカス」。フランス人枢機卿ジャン・ピレール・ド・ラグロラ「ヴァチカンのピエタ」依頼。6月ローマへ。

 

1498

23

「ヴァチカンのピエタ」

ヴァスコ・ダ・ガマ、インド航路発見。

フィレンツェではサヴォナローラ派と反対派の対立激化、4月サン・マルコ聖堂包囲、5月サヴォナローラ処刑。

1501

26

 

春フィレンツェへ帰る。5月シエナ大聖堂ピッコローミニ祭壇聖像制作契約(1504年までに4体制作)。8月ドゥオーモ大聖堂造営局と毛織物組合より「ダヴィデ」依頼。9月制作開始。この頃「キリストの埋葬」

 

1503

28

4月フィレンツェ、ドゥオーモ大聖堂のために「十二使徒」契約。「トンド・タッディ」

ピウスⅢ

フィレンツェ、ソデリーニが終身の統領に選ばれる。

1504

29

6月「ダヴィデ」市政庁前に設置。「ブリュージュの聖母子」、絵画「トンド・ドーニ」制作。

ユリウスⅡ

1505

30

 

「トンド・ピッティ」。ユリウスⅡの招きでローマへ。ユリウスⅡ墓廟制作を依頼されカッラーラに滞在。

 

1506

31

 

ユリウスII心変りして墓計画を廃棄。4月フイレンツェへ帰る。11月ボローニアでユリウスIIと和解。

 

1507

32

 

ボローニァで巨大なユリウスII青銅像制作に従事。4月蠟鋳型、7月鋳造。

 

1508

33

 

3月「ユリウスII世像」ボローニア、サン・ペトロニオ聖堂正面に設置(1511年12月破壊される)。3月か4月ローマへ。システィーナ礼拝堂天井画契約、制作制作開始。「十二使徒」契約破棄。

 

1509

34

8月システィーナ礼拝堂天井画ほぼ半分完成。9月一年以上途絶えている支払交渉のため、ユリウスⅡに会いにボローニャへ。10月以降ローマ、システィーナ礼拝堂天井画制作再開。

 

1511

36

ボローニャのユリウス像が破壊され、大砲に鋳られる。8月システィーナ礼拝堂天井画除幕式

 

1512

37

10月システィーナ礼拝堂天井画完成。

メディチ家がクーデタでフィレンツェに復帰。マキャベリら追放。

1513

38

ユリウスⅡ死去、遺族と墓制作の契約(第二次)。「モーゼ」像と二つの「囚われ人」像着手。

レオⅩ

1516

41

7月ユリウスII墓廟、第三次契約。9月から墓廟制作のためカッラーラに滞在。12月メディチ家出身の法王レオXよりローマに召ばれフィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂正面の制作依頼。そのためフィレンツェへ。そこでドゥオーモ大聖堂のドームの鼓胴と回廊の改装を依頼される。カッラーラへ戻る。

 

1517

42

 

引き続きカッラーラで大理石切出しに従事。8月病気になる。

ルター九五ヵ条の意見書を発表。宗教改革の端緒。

1518

43

1月レオXとサン・ロレンツォ聖堂正面建設契約。3月新しい大理石産地ピエトラサンタへ行く。4月~9月カッラーラとセラヴェッツァ間の大理石運搬路開拓。

 

1519

44

 

マゼラン世界就航に出発。レオナルド死。

1520

45

3月10日レオⅩ、サン・ロレンツォ聖堂正面建築中止命令。11月8日サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂新聖具室の墓廟建築を依頼。「勝利者」。

ラファエロ死。

1521

46

12月1日レオⅩ死去。ミケランジェロはメディチ家礼拝堂墓廟のためカッラーラで大理石採掘に従事。ユリウスII遺族墓廟遅延を提訴。

 

1523

48

4体の「囚われ人」。サン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂墓着手。「聖母子」。

ハドリアヌスⅥ

1524

49

 

 

1月クレメンスVIIにローマへ召び出される。2月クレメンスVII提供の給与・住宅を拒否。フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂内ラウレンチアーナ図書館建設依頼。メディチ家礼拝堂・ロレンツォ墓の「ジュリアーノ」「ロレンツォ」「夜明け」「夕」像着手。

クレメンスVII

1525

50

ユリウスⅡ遺族の訴訟再発。

 

1526

51

ユリウス墓の第四次設計案を遺族は拒否。

メディチ家墓の「夜」「昼」像着手。

 

1527

52

 

5月神聖ローマ帝国カルルVローマ占領。傭兵による「ローマの掠奪」。フィレンツェ市民メディチ家を追放。再びフィレンツェ共和国成立。

1528

53

フィレンツェ市防衛会議参加。フィレンツェ共和国依頼の「へラクレスとカクス」制作。6月弟ブォナロート死亡。

 

1529

54

1月フィレンツェを防衛するための「軍事九人委員会」に選ばれ、4月「築城総司令官」に就任。7~8月フェッラーラの防衛施設を視察。フィレンツェに戻った9月末ヴェネツィアに逃走。滞在中、リアルト橋の新設計案を依頼される。市政庁や友人らの懇願により11月再びフィレンツェへ戻って防衛工事を指揮。

法王・皇帝・メディチ軍フィレンツェに来襲。

1530

55

フィレンツェでヴァローリのために「ダヴィデ/アポロ」制作。メディチ家の刺客に狙われる。メディチ家礼拝堂の地下に潜伏。11月法王のとりなしで、メディチ家の仕事再開。弟子アントーニオ・ミーニ、フランスへ。

8月フィレンツェ共和国は法王軍に降伏。フィレンツェ公国成立。メディチ家復活。

1531

56

父ロドヴィコ死去。「夜明け」と「夜」ほぼ現在の形まで完成。夏重病に罹る。ミケランジェロとメディチ家の関係悪化。

アレッサンドロ・メディチ、フィレンツェ公となる。

1532

57

4月29日ユリウスII墓廟の新しい契約、彫像6体のみとなる。その年の終り頃トンマーゾ・デ・カヴァリエーリと出会う。カヴァリエーリのために素描制作。終生交流続く。

 

1533

58

9月フランスへ行く直前のクレメンスVIIと会見。システィーナ礼拝堂祭壇壁画「最後の審判」と入口壁に「反逆天使の失墜」制作を約束。10月~翌5月ローマに滞在。

 

1534

59

 

3月「反逆天使の失墜」は契約は破棄。9月ローマに移住、9月クレメンスVII死去。「最後の審判」計画中断。ユリウスⅡ墓廟を再開。

パウルⅢ

1535

60

4月「最後の審判」足場架設。9月新法王「最後の審判」契約を追認、ミケランジェロをヴァチカン宮の首席画家、膨刻家および建築家に任命。ヴィットリア・コロンナを識る。

 

1536

61

夏頃再び「最後の審判」に着手か。11月バウルスⅢの法命によりユリウスⅡ墓廟から一時解放。

 

1537

62

カンビドリオ広場整備を依頼される。

フィレンツェ、トスカナ公国となり、共和政終わる。

1538

63

10月から1541年にかけてヴィットリア・コロンナのために素描、詩を制作。

 

1539

64

「ブルータス像」この頃着手か。

 

1540

65

12月「最後の審判」上半分完成。

 

1541

66

「最後の審判」制作中足場から落ち怪我。10月「最後の審判」の覆いを取り除く。ユリウスII墓廟再着手。

カルヴィン、ジュネーブで宗教改革。

1542

67

8月ユリウスⅡ墓廟の最終契約。10月以降パオリーナ礼拝堂壁画「パウロの回心」着手。

 

1545

70

2月にユリウスII墓廟に彫像設置か。その頃ヴィットリアのために素描「磔刑」「ピエタ」図など。7月パオリーナ礼拝堂「パウロの回心」完成。ローマ滞在中のティツィアーノをヴァザーリと訪問。アッレティーノ「最後の審判」批判の手紙。

 

1546

71

1月病気。3月パオリーナ礼拝堂壁画「ペテ口の磔刑」着手。ファルネーゼ宮建設着手。10月サン・ピエトロ大聖堂建築監督に就任。詩集の出版を考える。

 

1547

72

2月ヴィットリア・コロンナ死去。サン・ピエトロ大聖堂第二案模型。「フィレンツェのピエタ」この頃着手か。

 

1548

73

弟ジョヴァン・シモーネ死亡。

 

1549

74

3月から6月尿結石症に苦しむ。ベネデット・ヴァルキ、ミケランジェロのソネットを注釈した「二つの講義」出版。

 

1550

75

3月「ペテロの磔刑」完成。ユリウスⅢからサン・ジョヴァンニ大聖堂、モントリオーニ聖堂の礼拝堂墓建設などの相談。ヴァザーリ「ルネサンス美術家列伝」初版出版。

マルケルスⅡ

1551

76

サン・ロッコ聖堂のそばに建てるユリウスⅢの館の模型着手(~1552年2月)

 

1552

77

カンピドリオ広場第一次整備終了。

 

1553

78

コンディヴィ「ミケランジェロ伝」出版。甥レオナルド(弟ブォナロート長男)結婚。

 

1554

79

イエズス会聖堂(ローマ)の設計。

 

1555

80

パウルスIV、サン・ピエトロ大聖堂のドーム建築を依頼(サン・ロレンツォ聖堂ラウレンチアーナ図書館階段完成)。「パレストリーナのピエタ」制作この頃か。5月結石症再発。弟シジスモンド死亡。12月ミーニの後の弟子ウルビーノ死去。

パウルスⅣ

1556

81

スポレートの山へ避難(→10月末)

9月スペイン軍ローマへ接近

1557

82

8月サン・ピエトロ大聖堂ドームの模型(第三案)(1561年11月完成)。7月通風に苦しむ。ルドヴィコ・ドルチェ「絵画問答」を著しミケランジェロ批判。

 

1559

84

サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂、サンタ・マリア・マッショール望堂内スフォルツァ礼拝堂設計の依頼。「ロンダニーニのピエタ」着手この頃か。

 

1560

85

ピウスⅣからポルタ・ピア(ピアの門)の設計、ディオクレティアヌス帝大浴場遺跡にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティリ聖堂建築設計の依頼。フィレンツェからサン・トリニティ橋設計依頼。

ピウスⅣ

1563

88

1月フィレンツェ、アカデミア・デル・ディゼーニョの名誉院長。この頃「磔刑」制作説あり。1545年12月から開かれていた対抗宗教改革のためのトント公会議はこの年12月に閉会。

 

1564

88

1月トレント公会議の決議をピウスIV承認、システィーナ礼拝堂壁画「最後の審判」の猥褻とみなした部分を「覆い隠す」決定。2月18日ミケランジェロ、ローマで死去。3月11日甥レオナルドによって遺体はフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬。

 

木下長弘氏、会田雄次氏、コンディヴィ高田博厚氏訳の本を参考にした

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diary 2024-10-30(水) 月齢 27.3 雨・曇り
スズキのバッハ・カンタータBWV 78、99、114、バッハ・ヴァイオリン協奏曲をパールマンで少し聴く。2桁の掛け算は5題くらい。ブリテンのミケランジェロの7つのソネット(7)をアップ。諦観と清々しさが漂う。

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