ムソルグスキー オペラ ボリス・ゴドゥノフ Boris Godunov / Mussorgsky

ムソルグスキー Modest Mussorgsky (1839-1881)
オペラ ボリス・ゴドゥノフ Boris Godunov (1869,1872)

        

 

 

ボリスについての以前の記事を集めた。(2006)

「ボリス・ゴドゥノフ」の変遷

「禿山の一夜」の場合と同様に「ボリス・ゴドゥノフ」の歩みも複雑です。以下にまとめてみました。

 

1868年4月、ダルゴムィシスキーがオペラ「石の客」の2幕を完成。ドン・ジョバンニの話のプーシキン版で、プーシキンの文を逐語的に用いる叙唱(レシタチーフ)から成った新しいオペラだった。(「ロシア音楽史」フランシス・マース著、森田稔・梅津紀雄・中田朱美訳、春秋社によるとダルゴムィシスキーの気晴らしで作ったものを五人組が自分たちの理念の具現化と理解したと書いてある。P.157)

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1868年6月11日~7月8日(「ムソルグスキー その作品と生涯」アビゾワ著伊集院俊隆訳新読書社では夏の3ヶ月とある)ムソルグスキーはこのオペラに刺激され、ゴーゴリの喜劇「結婚」という散文をそのままオペラにすることを始め、第1幕4場を書き上げるが完成には至らなかった。

「もはや叙情的な刺激に依拠せず、人間の言葉の抑揚に依拠した。ダルゴムィーシスキイが、あらゆる言葉に独自の音楽的形状を与えようと努めたのに対して、ムーソルグスキイは、話し言葉の抑揚や強勢、リズムやテンポを科学的な正確さで模倣しようと試みた」(「ロシア音楽史」春秋社P.159)

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1868年10月にグリンカの妹ショスタコワからプーシキンの戯曲「ボリス・ゴドゥノフ」を、友人のニコーリスキイからは歴史資料を借りてオペラに着手。1869年5月には台本を書き終え、1869年12月15日には第1稿のスコアが完成。

「ボリス・ゴドゥノフ」(第1稿)1869年版

第1幕 第1場:ノヴォデーヴィチイ修道院の中庭/第2場:クレムリン内の広場(戴冠式の場)

第2幕 第1場:チュードフ修道院の僧坊/第2場:リトアニア国境の旅籠屋

第3幕 クレムリン内の皇帝の私邸内部

第4幕 第1場:ヴァシーリイ聖堂前の広場/第2場:クレムリン内にある会議場(ボリスの死)

ボリスの悲劇と民衆の悲劇に焦点をあてたムソルグスキーは、副次的なモチーフを削っため、スターソフはプーシキンの悲劇をひどく狭いものにしたとみなし、作曲家仲間はグリンカの「イワン・スサーニン」のようにポーランドの場面を取り入れてオペラを広げるように忠告したが聞こうとしなかった。

アレクサンドール・セローフのオペラ「ユディト」(1863年)のホロフェルネスの精神錯乱の場の影響が見られる。

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1871年2月10日、マリンスキー劇場の上演演目を決定する楽長・指揮者委員会により、上演が却下される。

理由はヒロインが登場しないこと、独唱部より演奏部のほうが優っていること、重唱と合唱が重視されすぎていること、物語が特異で陰惨すぎること、グリゴーリーがリトアニアの旅籠屋以降登場しないこと、愛の歌を歌うテノールが登場しないこと、華やかな舞踏のシーンがないこと、音楽があまりにも新しすぎること、突飛過ぎ、オペラの伝統から外れていることにあったようだ。

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1871年4月から1872年6月にかけて第2稿に取り掛かる。

「ボリス・ゴドゥノフ」(第2稿)1872年版

プロローグ 第1場:ノヴォデーヴィチイ修道院の中庭/第2場:クレムリン内の広場(戴冠式の場)

第1幕 第1場:チュードフ修道院の僧坊/第2場:リトアニア国境の旅籠屋

第2幕 クレムリン内の皇帝の私邸内部

第3幕 第1場:マリーナの化粧室/噴水のそばの庭園

第4幕 第1場:クレムリン内にある会議場(ボリスの死)/第2場:クロームィ郊外の森の空き地(革命の場)

第1稿はボリスの死で終わっていたが第2稿は民衆の蜂起で終わるように変更された。

マリーナの登場する第3幕のポーランドの場面を加えた

「ロシア音楽史」春秋社で著者のマースは、ムソルグスキーは官吏委員会と検閲による圧力から改訂し、妥協と譲歩の産物であるという伝説は疑わしいとしている。それは以下の理由からだという。

ショスタコワがムソルグスキーに委員会の見解を話すと、彼はスターソフと挿入すべき新たな場面について熱烈に議論し始め、いくつかの主題を弾き非常に賑やかに過ごしたと回想していること。

リムスキー=コルサコフもプルゴーリドへの手紙で、ムソルグスキーは「ボリス」の運命に関してすべてを理解していて、皆が予想したのとはまったく異なった反応を見せたと語っていること。

この改訂は、委員会の要求以上のものとなっていることもあり、彼自身の芸術的発展の反映でしかありえないという。

そして同時に、ボリスのモノローグは初稿では「結婚」と同じような戯曲をそのまま使用する対話オペラ的であったのに、改訂稿ではムソルグスキー自身の歌詞によるアリアに変更していること、マリーナのアリア、ポロネーズ、愛の二重唱を挿入し、今までのロマンティック・オペラの定式を組み込んでいることなどから、以前の自分の極端な観点を放棄しているという。

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1872年2月に戴冠式の場がコンサート形式で上演。

1872年暮れ、上演がまたも却下。

1873年3場のみの抜粋が私演され、好評だったため全曲を取り上げる運びになる。

1874年1月27日マリンスキー劇場で数ヶ所カットされた形で初演され大成功を収める。(特に民衆の蜂起するクロームィの場面をカット)

1882年(ムソルグスキー没年の翌年)以後上演されなくなる。(アレクサーンドル3世が非合法化し、帝室劇場での上演リストから削除)

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1896年、リムスキー=コルサコフがこのオペラの真の重要性を強調することと、ムソルグスキーの技術的知識の欠如を攻撃する者を黙らせるため、不完全だと彼が思うものをすべて削除し、大幅に短縮、最後の2場面の順序を入れ替えた改訂版を作り、ペテルブルグ音楽院で演奏。

1898年12月7日、リムスキー=コルサコフ版が完全な形で上演される。(ボリス役はシャリャーピン)

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1906年キュイーの偏狭な批判もあり、リムスキー=コルサコフは削除個所を復活させ、やはり最後の2場が入れ替わったままの第2版を作る。

 

1908年ディアギレフがパリで初演する際、戴冠式の場など豪華に見せるため、改めてリムスキー=コルサコフに変更を依頼し上演。(従ってムソルグスキーの版もリムスキー=コルサコフの版も反映しない形であった)

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1928年ムソルグスキーが削除したすべての個所を復活させて、2つの稿を1つの連続的な楽譜オリジナル版として、パヴェル・ラムが出版する。

1940年ショスタコーヴィチ版

1948年ポーランドの作曲家、カロル・ラートハウス版

1975年ロイド・ジョーンズ版が出版される。彼は「上演するものが、自分たちが上演したい音楽を選ぶことができる源泉」と語っている。

このようにして「ボリス・ゴドゥノフ」は、惨めにも、誰もがそこから自分が望むものを選び取るような、「セルフ・サービス」のスコアに変わってしまった。

今日にいたるまで、ムーソルグスキイは、確たる補正の手を必要とする芸術家とみなされている。(「ロシア音楽史」春秋社)

「ボリス・ゴドゥノフ」は1869年版から1872年版へと発展し、1872年版が最終的にムソルグスキーの意図したものであるようです。

 

ボリス・ゴドゥノフ」①プロローグ 第1場

「ボリス・ゴドゥノフ」は第2稿(1872)を決定稿としてそれを基準として表記することにします。したがってプロローグは第1稿では第1幕となります。

ボリス・ゴドゥノフ、聴けば聴くほど感心します。それにしてもこのオペラの運命は悲しいです。

 

1869年に完成された第1稿はボリス・ゴドゥノフ個人に焦点を当てた、戯曲をそのまま使う対話オペラを取り入れた作曲者自身から見れば完璧なものでした。

しかし上演拒否されて、改めて書き直した1872年の第2稿は対話オペラ的方法は後退したもののより旋律的になり、より変化のあるエピソード・音楽が挿入され、何よりもボリスの死で終わるのでなく、民衆の蜂起で終わるという、より開かれた大きな劇となっています。

 

ラム版にしてもロイド・ジョーンズ版にしても第1稿第2稿を混ぜて作っているため作曲者の意向が反映されていません。

つまり、第2稿のために変更した個所が第1稿のものに変わり、第4幕では第2稿ではカットした幕が復活し、そのために聖愚者の嘆きが第1場と第3場の両方にまったく同じ形で置かれているのです。

CDで聴くゲルギエフの「ボリス」は、この第1稿、第2稿をそれぞれ2つの「ボリス」としてそのまま録音しているので、これこそ作曲者の意向が反映された録音ではないかと思います。

プロローグ:第1場(ボリスのいる修道院前)

多くの民衆が駆り出され、ボリスが皇帝になるように嘆願させられる。

民衆はなぜ嘆願させられるのかわかっていない。

貴族会議書記のシチェルカーロフが登場してボリスが帝位につくことを拒んでいると告げる。

巡礼が合唱と共に修道院に入っていく。

明日、民衆に対して戴冠式に来るように言われる。

序奏~警官の命令と民衆の嘆願の合唱~シチェルカーロフの言葉~巡礼の合唱~民衆の会話

ファゴットが物悲しい旋律を歌いだします。

それはオペラ全曲を貫く2つのつらい運命、つまり皇帝ボリスの悲劇と民衆の悲劇を象徴的に表しているようです。

そしてこの旋律は後に出てくるいろいろな旋律の源泉となっています。

私は、今までの歌曲が民衆の中のとりわけ底辺層を取り上げているのが印象的であったので、このオペラで皇帝対民衆、つまり支配者層と被支配者層の対立と民衆の勝利を描くものかと思っていましたが、まったくの見当違いでした。

ここで描かれる皇帝ボリス・ゴドゥノフは、政治上の悪を必要悪として何とも感じない普通の政治家ではなく、良心の呵責にさいなまれる一人の人間として描かれます。

それはボリスの死で終わるボリスに焦点をあてた第1稿でも変わらず、批判されて変わった点ではありません。

そうではなく、皇帝もそして民衆も、人間にどうすることもできない何か大きなもの、運命とか歴史、時間、時代といったものに焦点をあて、それらをダイナミックに描いているように感じました。

続く次のフレーズによって、民衆に重い圧力がのしかかってきます。

このフレーズに促されて、民衆を怒鳴りつけて懇願させる警官の登場。

そしてなぜ駆り出されているのかわからない民衆の懇願の合唱。

この合唱も素晴らしいです。

貴族会議書記のシェルカーロフの嘆きも素晴らしい歌。

そして巡礼の合唱が私は大好きです。

巡礼は近づいてきて遠ざかります。

その高揚と合唱の素晴らしさと言ったら!

特に合いの手をうつように加えられる低音の一撃とブラスの不思議な(奇怪な)和音!

この音楽は鳥肌ものでした。

次に民衆の対話が続きますが、リムスキーコルサコフ版では省略された個所です。

「ロシア音楽史」(フランシス・マース著、森田稔・梅津紀雄・中田朱美訳、春秋社)では、第2稿ではこの個所は省略されたと書かれているのにゲルギエフ版では第1稿と同じくそのまま演奏されています。

いったいどちらが正しいのでしょうか。

しかしこの部分は省略してほしくありません。

巡礼の音楽の名残りが民衆に歌われ、最後にはあの最初の序奏が現れます。

ここに見事に統一されている感があるからです。

「ボリス・ゴドゥノフ」②戴冠式の場 プロローグ 第2場

プロローグ:第2場(クレムリンの戴冠式の場)

民衆がクレムリンに集められ、ボリスの戴冠を祝う。

ボリスは初め不吉な予感を感じるが、次第に善い政治を行なう決意を固める。

再び民衆の「栄光あれ」の大合唱

序奏~民衆の「栄光あれ」の合唱~ボリスのモノローグ~再び民衆の合唱

戴冠式の場は第1稿第2項とも共通のようです。

リムスキー=コルサコフ版では、最初金管を混じえずに弦で始められ、繰り返しから金管が加えられるというように洗練されています。

しかしこの場の音楽は充実しています。

この序奏、この始まり、すごいですね!

鐘の音でしょうか、チューバでしょうか、低い音がゴーンとやり始めます。

続いて、ラッパの一群がギャーン、ドラがグヮーン、低音のブラスがラッパに応えるかのようにブーンとやる。

それがまるで巨大な怪物が歩いているかのようにゆっくりなテンポで繰り返されます。

それは運命という怪物でしょうか、時間という怪物でしょうか。

恐ろしいものがやってくる。

続くは弦や木管で奏される細かな奇怪な音。

魔女が飛び跳ねて踊っているようでも、狂った時計が突然動き出したようでもあります。

きっとボリスの運命の時が始まったのです。

 

それは徐々に高揚していき、頂点を迎えます。

四方八方からの鐘・鐘・鐘…鐘の音。

そうれ、ティンパニ・太鼓・ドラのクレッシェンドだー!!

 

続くはラッパのファンファーレ!静粛に!

シェイスキーの「称えよ!」という言葉と共に「栄光あれ」の大合唱が始まります。

 

何と豪華絢爛な音楽!

メロディーは本物の民謡から取られたそうです。

素晴らしい高揚!!

最後のティンパニやトロンボーンが作り出す痛快で豪快なリズムといったら!!

 

そしてボリスのモノローグ。

最初、不安がよぎりますが、徐々に力強くなり国を善く治めようと決意を高らかに表明します。

そして再度の民衆の大合唱。

太鼓だ!ドラだ!ボントロ行けー!大合唱だ!

おおぉぉ、このすごい盛り上がり!!

 

「ボリス・ゴドゥノフ」③チュードフ修道院の僧坊 第1幕 第1場

戴冠式から5年後、夜中老僧ピーメンが年代記を書いている。

修道僧の合唱が舞台裏から聞こえてくると、若い僧のグリゴリ-が目覚める。

ピーメンはボリスが皇位継承者ドミトリー暗殺に関わっていることを告げる。

グリゴリ-は同年齢のドミトリーになりかわってボリスの地位を奪うことを思いつく。

戴冠式の華やかな場面から一転、静かな夜の僧坊。

 

ロシアでは修道僧が社会や為政者のことを年代記に残す風習があったそうです。

ボリスが皇帝の位についた1600年前後の当時は、陰謀、粛正などが後世に伝わることを嫌って年代記を書くことが禁じられていたとのこと。

だから老僧ピーメンは夜中にひそかに年代記を書いています。

ボリスの関わったドミトリー殺害の事件も。

 

「ロシア音楽史」(フランシス・マース著、森田稔・梅津紀雄・中田朱美訳、春秋社)によると「修道院の庵室の場面では、皇太子殺害に関するピーメンの説明が省かれ」とあるとおり、1872年の第2稿では第1稿にあったピーメンの説明が省略されています。

ところが、アバドやロストロポーヴィチ、フェドセーエフ、恐らくマタチッチも採用しているオリジナルといわれるロイド・ジョーンズ校訂版では、ムソルグスキーが第2稿のためにわざわざ省いて台本も少し変更した所を第1稿のものに戻しているのです。

リムスキー=コルサコフ版では第2稿のものを使っています。

 

罪は、オペラの中心的モティーフであるドミートリイのモティーフの扱いによって音楽的に強調されている。ムーソルグスキイはそれを庵室の場面で二回、最初は本物のドミートリイへの言及として、二回目は偽のドミートリイ、グリゴーリイ・オトレーピエフに対する言及として用いている。それは、本物のドミートリイのモティーフとしては大部分が短調であるが、僭称者のモティーフとしては、それは長調である。さらに、このモティーフはボリースが登場する全体に出てくる。ムーソルグスキイがそれを用いる際の曖昧さゆえに、それらは、僭称者がボリースに放つ深い恐怖の象徴になる。ボリースにとっては、本当のことと、彼が恐れていることとの区別がつかなくなっている。

(「ロシア音楽史」フランシス・マース著、森田稔・梅津紀雄・中田朱美訳、春秋社)

ドミトリーのモティーフとはこれでしょうか。

 

このモティーフがベルリオーズやワグナーのような示導動機として何度も登場します。

このモティーフ、とても清らかで厳かな感じがします。

 

年代記を書く老僧ピーメンの静かなモノローグ、グリゴリ-は悪夢で目覚めます。

それは民衆のあざけりを受け、塔から墜落する夢です。

ボリスの地位を奪いボリスの一族を虐殺し、民衆の反感をかってシュイスキーに殺される運命を予見しているようです。

 

静かな対話的叙唱が続く中、所々劇的音楽的にコントラストを高めるための修道士の祈りの音楽が挿入されます。

上記の本でマースは、この修道士たちの合唱も第2稿になって初めて加えられたと言及しています。

ゲルギエフの演奏では第1稿でも「修道士たちの合唱」が含まれており矛盾しています。

しかしこの合唱は効果的です。

 

鐘が鳴り、対話が終わると、グリゴリ-が「ボリスよ、ボリスよ!…貴様には神の裁きが逃れられないように、この世の裁きだって逃れられないのだ。」と叫び、僭称者になる企みが浮かびます。

 

「ボリス・ゴドゥノフ」④リトアニア国境付近の旅籠屋 第1幕 第2場

破戒僧ワルラームとミサイールと共にグリゴリーがリトアニア近くの旅籠屋にやってくる。

ワルラーム、酒を飲んで「昔カザンの町では」を上機嫌で歌う。

警官がグリゴリーの手配書を持ってやってくる。

ワルラーム、半分眠りながら「やつが馬でやってくる」を歌う。

みんな文字を読めないことを利用してグリゴリーがワルラームの人相にすりかえて手配書を読みあげる。

怒ったワルラームがたどたどしく手配書を読む。

ばれたグリゴリ-、ナイフを振り回し逃げ去る。

 

(第1稿)序奏~女将との対話~ワルラーム「昔カザンの町では」~ワルラーム「やつが馬でやってくる」~手配書の読み上げ~逃走

 

第2稿は序奏に「昔カザンの町では」のテーマが加わり、序奏の次に女将の「野鴨の歌」が挿入される。

夜の静かな僧坊の場面から一転、明るく陽気な旅籠屋の場面となります。

この場では、陽気な旅籠屋の女将、豪快で野蛮な破戒僧、文盲で庶民には高圧的な警官などの人物が豊かに描かれます。

 

序奏はこれまたすばらしい音楽。

「昔カザンの町では」のテーマでガーンと強烈に始まります。

これは第2稿で初めて入れられたようで、ゲルギエフの第1稿版ではこのメロディーはなく、次の弦楽から始まります。

続いて弦楽がビンボンバンボンと弦をはじいて、まるで「遥かな旅を行く」ような音楽。

そしてワルラーム、ミサイールの「愉しい旅」を表すようなメロディー。

次のメロディーは優しい、まるで「はるか遠くへ来たもんだ」といってるみたいな音楽。

 

第2稿になって入れられた、陽気な女将の歌う「野鴨の歌」。

ドイツのヘルマン・シャインの歌の借用だそうですが、本物の民謡のように聞こえます。

 

続いて破戒僧がやってきて、酒をのみだすと、その一人ワルラームが「昔カザンの町では」を歌います。

何とも豪快で楽しい音楽。

 

この形象(ワルラーム)の中にムーソルグスキイは民衆の巨大な勇士的な力が賢明には用いられずに、あてどない放浪と飲んだくれに発散されてしまうことを示している。ヴァルラームの形象を描く上で、彼の歌「昔カザーンの町では」が重要である。それは声楽とオーケストラの素晴らしい絵画へと発展する。

 この歌は力強さと押さえ難い突進的な動きが印象的である。この陽気な乱痴気騒ぎの歌は、ムーソルグスキイの限りないファンタジーによって、各節ごとに、オーケストラ伴奏に新しい彩りと機知が与えられ、新鮮な印象を与える。

(「ロシア音楽史Ⅰ」森田稔・梅津紀雄訳 全音楽譜出版社)

 

そして次の歌「やつが馬でやってくる」は本物の民謡の旋律ということです。

 

ワルラームは酔っ払って半分居眠りをしながら歌います。

最初歌のソロで始まり、オーボエとホルンかな、がパラ-ンと合いの手を入れます。

何とものどかな感じ。

その歌にグリゴリーと女将の会話が加わって見事な三重奏。

この歌もおもしろく印象に残ります。

 

グリゴリーは自分の手配書をワルラームの人相に変えて読み上げますが、ばれてナイフを振り回し逃走。

 

リムスキー=コルサコフ版もロイド・ジョーンズのオリジナル版も第2稿を採用しています。

 

ムソルグスキーの深い孤独

1874年、今聴き続けている「ボリス・ゴドゥノフ」がマリンスキー劇場でいくつかのカットはあるものの上演されました。

ディレッタント、職業音楽家ではなかったムソルグスキーにとって自分のオペラが劇場で公演されるというのは無上の喜びだったはずです。

 

だから、1871年、上演拒否されて憤慨しても、友人達に説得され、自分でも納得して新たな気持ちで第2稿を書き続けたのでしょう。

その結果、第1稿とは視点の違う、新たなより素晴らしい「ボリス」が完成したのです。

 

そして、再度の上演拒否の後、やっと上演されるようになりました。

それはそれは大喜びだったのではないでしょうか。

 

それなのに、です。

1874年以降、友人の死もあったでしょうが、ぐっと暗くなるのです。

歌曲を見ても歌曲集「日の光なく」、「死の歌と踊り」、「忘れられた者」と希望のない歌が作られていきます。

 

酒浸りの生活。

孤独!

職もなく住むところのない居候生活。

 

あの五人組がいたではないか。

彼らはどうしてたのでしょう。

 

兄のフィラレトは?

なぜ助けられなかったか。

 

「ボリス・ゴドゥノフ」が上演されたという快挙なのに!

これはどうしてなのだろう。

 

何かこの時期にあったのではないだろうか。

ムソルグスキーに関しての本は少ないですが、それらを読んでも良くわかりませんでした。

本当のところどうだったのだろう。

 

最近、3つの貴重な資料に出会いました。

そこにこれらの疑問に答えるヒントがあったのです。

 

おぉ、こういう事情が…。

何たる孤独!

ボリス・ゴドゥノフに降りかかる運命の時計のように、ムソルグスキーにも運命の時計が動き出してしまったのです。

 

資料1:「ボリス・ゴドゥノフ」(名作オペラブックス24、アッティラ・チャンパイ&ティートマル・ホラント編、小山内邦子訳、音楽之友社、昭和63年)

資料2:「ムッソルグスキー 荒野・暴風・生涯」(オスカー・フォン・リーゼマン著、服部龍太郎訳、興風館、昭和17年)

資料3:"MUSORGSKY His Life and Works"(David Brown OXFORD UNIVERSITY PRESS 2002) 

資料を読んでいると目は疲れるし、時間はないわ、なかなか記事が進みません。

 

「ボリス・ゴドゥノフ」⑤クレムリンのボリスの宮殿 第2幕

ボリスの娘クセーニャが婚約者の死を悲しむ歌。

ボリスの息子フョードル、乳母が慰める歌。

ボリスの回顧、独白「私は最高権力を得た」

腹黒い廷臣シェイスキーがドミトリーを名乗る者が現れたと告げる。

皇子の殺害の様子を聞くボリスは苦しむ。

時計の鐘。亡霊におびえるボリス。

 

(第2稿1872)

序奏~クセーニャの嘆き~フョードル・時計の話~乳母「蚊の歌」~フョードル「手打ち歌」~ボリス「私は最高権力を得た」~フョードル・オウムの話~シェイスキー~ボリスの苦悩~8時を打つ時計~亡霊におびえるボリス

 

(第1稿1869)

序奏~クセーニャの嘆き~フョードルの地図の話~ボリス「私は最高権力を得た」~シェイスキー~ボリスの苦悩と亡霊におびえるボリス

この幕は第1稿と第2稿ではだいぶ変更されています。

第1稿では全体的に変化がなかったのに対して、第2稿では「蚊の歌」「手打ち歌」、オウムの話、時計の効果とさまざまな変化をつけています。

 

序奏は弦の悲しい旋律。

 

第1稿ではクセーニャは婚約者の死を嘆いているのですが、フョードルはそれには反応せず地図を見ているのみで、ちぐはぐな印象があります。

第2稿になると、フョードルはクセーニャを慰める対話となり、大時計が鐘を打ちます。

(フョードル)時計が鳴り出しましたよ!音楽が流れ出した。この時計については、こう説明がある。時刻が告げられると、ラッパとオルガンそして太鼓がなり始める。次いで人形があらわれ…ごらんよ、ばあや、ほら、まるで生きているみたいだ。

(「ボリス・ゴドゥノフ」名作オペラブックス24、アッティラ・チャンパイ&ティートマル・ホラント編、小山内邦子・園部四郎訳、音楽之友社、昭和63年)

何とも不気味!

弦がバン・ボン・バン・ボンと時を打ち出します。

トロンボーンがボォォォ、ティンパニがゴロゴロゴロ。

オーボーがパッパカパッパッパッパー、フルートがピョッピョコピョロロロロロー。

その間も弦が渦巻くような音。

 

ナンセンスな「蚊の歌」「手打ち歌」は楽しい民謡風の歌でコントラストをつけます。

 

クセーニャやフョードルに対するボリスは家庭的でとても暖かい雰囲気。

後のボリスの死後、偽ドミトリーが政権を握ると、クセーニャは辱められて修道院に送られ、フォードルと母親は殺害されるという運命が待っていると思うと感慨深いです。

 

ボリスが自分の統治と家族の不幸はすべて自分の犯した罪のせいだと良心の呵責に苦しむモノローグ。

 

策士シェイスキーはドミトリーが進軍してくるとボリスに告げます。

以前、第1幕第1場でドミトリーのモチーフではないかと私が思ったものは違いました。

ドミトリーのモチーフはこのシェイスキーが最初にドミトリーの名を告げるときにバックに現れます。

 

ボリスは本物のドミトリー殺害の詳細をシェイスキーから告げられるに従い苦悩が増していきます。

そして、あの不気味な大時計の鐘。

渦巻くような不気味な音は空間をゆがめ、時を打つバン・ボンは心臓の音。

 

子供の亡霊。

振り払っても振り払っても亡霊に付きまとわれる、苦しむボリス…

 

「ボリス・ゴドゥノフ」⑥ポーランドのマリーナの部屋 第3幕 第1場

ポーランドに渡ったグリゴリーはドミトリーを名乗り、ポーランド貴族の娘マリーナ・ムニーシェクの城にいる。

マリーナはドミトリーと結婚してモスクワの帝妃になろうと野望を抱いている。

イエズス会のランゴーニはカトリックをロシアにひろめるために彼らを利用しようとしている。

 

マリーナを讃える娘達の合唱~マズルカ:マリーナの野望の歌~ランゴーニ、マリーナに伝道のため偽ドミトリーを誘惑するように言う

第3幕全体は女声のヒロインを登場させるために付け加えられました。

第2幕とはコントラスのある華やかな場面になりました。

 

歌曲「古典主義者」、そしてこれから取り上げる「ラヨーク(人形芝居)」のように、当時ロシアの貴族達に愛好されていたイタリアオペラ、ムソルグスキーの嫌悪していたイタリアオペラ風の音楽を、さあこれならいいのでしょうという具合に持ってきます。

「ロシア音楽史」のフランシス・マースは後退といっていますが、これはムソルグスキーお得意の皮肉なのだろうと思います。

 

またムソルグスキーは敵対している音楽を書くのもうまいのです。

「古典主義者」なんかすばらしい古典音楽になっていますもの。

マリーナのポーランドを象徴するようなマズルカが面白い音楽となっています。

 

「ボリス・ゴドゥノフ」⑦噴水のある庭の場 第3幕 第2場

低弦とティンパニが突き上げるようにズババラバン!

ホルン群がブンバカバッバと答える。

ヴァイオリンが付点のリズムで明るい陽気なメロディーを始める。

ブラス群の対旋律。

タンバリンが加わって華やかに。

それっ低弦だ!

ティンパニのリズムだ!

 

ムソルグスキーは次々に楽器を歌わせていきます。

リムスキー=コルサコフが、最初にこのポロネーズを取り上げて、リメイクしたのがよくわかります。

これはとても印象に残る素晴らしい音楽。

転向したリムスキー=コルサコフが、アカデミズムにのっとったワグナー風のオーソドックスな管弦楽に変えてしまったのですが、リムスキー=コルサコフ版はさらに華やかな音楽に仕上がっています。

 

アカデミズムや既存の音楽、ことに当時貴族の間ではやっていたイタリアオペラを嫌っていたムソルグスキーですが、ここで、これなら満足でしょうとでも言うように、偽ドミトリーに愛を歌うテノールを充分に活躍させます。

マリーナの城の庭、偽ドミトリーがマリーナへの愛を歌う。

イエズス会士ランゴーニが改宗を条件にマリーナとの仲をもつことを約束する。

ポロネーズにのってマリーナとその客ポーランド貴族達の舞踏。

マリーナと偽ドミトリーの思惑と愛の対話。

ランゴーニも混じってそれぞれの野心の絡んだ三重唱。

第3幕第2場は静かな月夜の庭。

クラリネットのドミトリーのテーマから始まり、偽ドミトリーがマリーナへの想いを歌います。

次に不快な半音階で音が下がっていくとランゴーニが登場し、改宗を迫ります。

 

そしてあの華麗なポロネーズにのってマリーナと貴族達が登場。

マリーナと偽ドミトリーの愛の二重唱へ。

マリーナにモスクワ進軍を促されて歌う僭称者の勇ましい歌は、マーチ風になったあのドミトリーのテーマ。

最後のクライマックスではマリーナの歌に、マーラーの「復活」5楽章とそっくりなフレーズで盛り上がりをみせます。

ムソルグスキーの皮肉とは言え、全く素晴らしい盛り上がりです。

 

しかしそこはムソルグスキー。

決してめでたしめでたしで幕を閉じません。

不快な半音階の下降が現れてランゴーニ登場。

最後は3人の腹黒い思惑を歌う三重唱を付け加えて終わります。

イタリアオペラ風には作ったけれど、決して物まねなんかじゃありません。

 

そこへいくとどうでしょう。

リムスキー=コルサコフは、最後の三重唱をカットし、ポーランド貴族の万歳まで入れて、大げさな盛り上がりを付け、めでたしめでたしで終わるという、何とも薄っぺらい内容の音楽にしてしまいました。

それこそイタリアオペラの常套手段。

「ボリス」第2稿を作曲していた当時、仲良くムソルグスキーと共同生活までしていたリムスキー=コルサコフは全くムソルグスキーのことをわかっていなかった。

 

「ボリス・ゴドゥノフ」⑧クレムリン宮殿内の大広間 第4幕 第1場

最終決定稿である1872年第2稿によると、第1稿にあったワシーリー教会前の場がカットされ、クロームィの森の場が新たに加えられたので、この稿に沿っていきます。

 

1898年のリムスキー=コルサコフ版の初演、そして1908年リムスキー=コルサコフ第2版のパリでの上演、とりわけシャリアピンのボリスがこのオペラの地位を決定づけました。

 

  あそこに。あれは何だ…。そこを見よ。あの隅に…。

 

シャリアピンの迫真の演技に、彼が顔を向けた方向に観客も顔を向け座席から飛び上がったと言います。

録音を聴くと、なるほど納得です。

 

僭称者追討の貴族会議。

シュイスキーの連れてきたピーメンがドミトリーの奇跡で目が見えるようになった男の話をボリスに告げる。

ボリスはそれを聞くと息苦しくなり倒れる。

ボリスは死期を悟り、息子フョードルに別れをつげる。

鐘の音。

教会からの祈りの声。

ボリスの死。

序奏はプロローグ第2場の巡礼の合唱のテーマから始まります。

貴族会議の合唱。

老僧ピーメンが登場すると、第1幕第1場で何度も出てきたピーメンのテーマが鳴り響きます。

 

死期を悟ったボリスは息子フョードルを呼び、これから皇帝として注意すべきことを諭し、家族をよく守れと告げます。

フョードルのその後の運命とロシア(ルーシ)の混乱を良く知っている聴衆には複雑な思いがよぎったでしょう。

 

あの鐘の音が不気味に鳴り響きます。

遠くから僧たちの祈りの声。

 

苦しみ、許しを請いながら、ボリスは死んでゆきます。

後奏は死による救済を表しています。

死が救いとなりますように…

 

「ボリス・ゴドゥノフ」⑨クロームィの森の場 第4幕 第2場

浮浪者たちの合唱

子供達と聖愚者

ワルラームとミサイールの歌

コサック民衆の目覚め

カトリック僧の行進

偽ドミトリーの登場とモスクワ進撃

遠くに警鐘の音

聖愚者の嘆き

第4幕第2場、最終場は前場とうって変わって民衆の大騒ぎから始まります。

ブラス群の咆哮。

民衆を苦しめるボリスの圧制に対して浮浪者たちが憤っています。

貴族のフルシチョーフが捕らえられ、なぶりものにされています。

 

民謡「空にハヤブサはもういない」が貴族をあざけりながら歌われます。

  貴族に栄えあれ!ボリスに栄えあれ!ああ、なんてご立派な栄誉だい!…

 

  トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル

この掛声とともに突然悪ガキたちが聖愚者とともにやってきます。

歌曲「[悪童(いたずらっ子)]」にでてくるような子供たちが鉄の帽子をかぶった聖愚者をからかいます。

聖愚者(ユロージヴィ)は、歌曲「[いとしのサヴィシナ]」で登場したあの滑稽で悲しい人物。

 

お月様が輝き、子猫ちゃんが鳴く。/聖愚者よ、起きて、神にお祈り。/キリストにお祈り。われらの神、キリストに。/明日は良い天気、お月様も顔を出す。

聖愚者はお金を悪ガキに取られ、あーあーあー!聖愚者をバカにしたな!と嘆きます。

 

この聖愚者の部分は、1869年の初稿で「ボリスの死」の場の前に置かれていた「ヴァシーリイ聖堂前の広場」の場から移されたものです。

この場では聖愚者がボリスに、幼い皇子の命を奪ったようにあいつらを切り殺すように命じてくれ、と恐ろしい言葉で嘆願します。

さらにボリスが自分のことを祈ってくれと聖愚者に頼むと、だめだ、ボリス!ヘロデ王のためになど祈れない!聖母様がお許しにならない、と何とも恐ろしい言葉を皇帝に投げつけます。

 

ムソルグスキーもこの印象的なエピソード全体を移したいと考えたのではないでしょうか。

しかしクロームィの森の場面ではボリスと接近する機会はなく、しぶしぶカットしたのではないかと想像します。

 

第1幕第2場で登場した破戒僧ワルラームとミサイールが登場。

 

「太陽と月がかすみ、星たちは空から転がり落ち、宇宙全体が揺れだした-皇帝ボリスの重い罪のために。…」

ムーソルグスキイは友人のゴレニシチェフ=クトゥーゾフへ、「ヴァルラームとミサイールは放浪者の場面に現れるまでは笑いを呼び起こしているが、この一見ふざけた人物がどんなに危険な奴らであるかが、ここで分かる。」と書き送っている。

(「ロシア音楽史Ⅰ」森田稔・梅津紀雄訳 全音楽譜出版社)

ワルラームとミサイールの煽動に浮浪者のコサックたちが「ボリスに死を!」と叫ぶまでに凶暴になっていきます。

合唱曲「若者の無謀な力が飛び散り、暴れ回った」が熱狂的に歌われます。

 

するとイエズス会士の歌が聞こえてきます。

  ドーミネ・ドーミネ・サルヴム・ファク…

群集は異端のものを捕らえ、天国の近くへ吊るせと叫びます。

 

遠くから進軍のトランペット!

勇ましい行進曲とともに偽ドミトリー登場し、モスクワへ!と叫びます。

遠くから警報の鐘の音!

オペラ全体を通して、鐘がとても効果的に打ち鳴らされます。

フルシチョーフ、イエズス会士、群集とも偽ドミトリーとともに進軍。

 

音楽は一転、とても寂しげに。残った聖愚者がロシアの嘆きを歌います。

 

流れ出よ、流れ出よ、血の涙よ。/泣き叫べ、泣き叫べ、正教徒の魂よ!/まもなく敵がやって来て、闇が訪れるだろう!/暗い、何ひとつ見えない闇が!/悲しみ、ロシアの悲しみ!泣き叫べ、泣き叫べ、ロシアの民よ、飢えに苦しむ人々よ!

(「ボリス・ゴドゥノフ」名作オペラブックス24、アッティラ・チャンパイ&ティートマル・ホラント編、小山内邦子・園部四郎訳、音楽之友社、昭和63年)

悲しく、寂しく、弱々しく音楽が消え、この壮大なオペラは幕を閉じます。

 

ボリスとムソルグスキー

私がムソルグスキーに興味を持ったのは、そもそも歌曲集「死の歌と踊り」でした。すべて死神が現れて人々を連れ去っていく。何よりもその魅力的な音楽!(今日のホロストフスキーの演奏会にいけなくて何とも残念!)ショスタコーヴィチの交響曲第14番「死者の歌」とどのような関連があるのだろうかという疑問もありました。ムソルグスキーはなんでこのような暗く恐ろしい歌を作ったのだろうと思ったわけです。

 

そしてムソルグスキーがとてつもない孤独に落ち込んでゆく転機が、この「ボリス・ゴドゥノフ」にあったのです。兄フィラレト・ムソルグスキー、バラキレフ、ラローシ、チャイコフスキー、キュイ、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、スターソフに焦点を当てて見ていきたいと思います。

 

年代を整理してみると「ボリス・ゴドゥノフ」第1稿が1868(29歳)~1869年、第2稿が1871~72年、その後ピアノ版が1874年(35歳)に出版されています。

 

①兄フィラレト

肉親である兄フィラレトは当時このような状態でした。

それまで同居してゐた兄フィラレットは、1868年の秋に、ペテルスブルクの住まひを引上げて、田舎に引込まなねばならなくなった。彼の財政的状態が年毎に悪化したばかりでなく、この二人の仲も漸次におもはしくなくなつた。それらは恐らく経済上の理由に基くものであつたと思はれる。フィラレットはムッソルグスキー家のものとして残されたものを処理するのに、不手際であると同時に不運でもあつた。事実彼はその後となつて一切の財産を失つてしまつた。弟のモデストが何回も訪ねて、最も美しい霊感にひたつたニヶ所の小さい領地、ミンキノとシロウォは、一物も余さずに競売に附されねばならなくなつた。そしてフィラレットは劇場経営を志したが、それもあまり成功しなかった。

(「ムッソルグスキー 荒野・暴風・生涯」オスカー・フォン・リーゼマン著、服部龍太郎訳、興風館、昭和17年)

服部龍太郎訳リーゼマンのこの本は古本屋で見つけたのですが、見ての通り戦争中の昭和17年8月4日発行のもので、昔の文体となっています。

ちなみに価格はニ円三十銭とあります。

しかし、他のどの翻訳物より読みやすくリーゼマン、服部両氏ともムソルグスキーへの深い愛情が読み取れますし、所有しているどの本より詳しいものでした。

 

農奴解放によって当時の貴族の多くが経済的な苦境にあった中、ムソルグスキー兄弟も苦しんでいた状況が分かります。

弟の面倒まで見られる状態ではなかったのです。

 

②バラキレフ

「力強い一団」(ロシア五人組)の親分、バラキレフはアントン・ルビンシュタインが辞職したあとロシア音楽協会の指揮者(1867年)になっていましたが、2年後の1869年に皇帝の伯母エレーナ・パーブロヴナらの圧力により解雇され、無料音楽学校の演奏会に専心していました。

ロシア音楽協会と無料音楽学校の対立が激しくなり、双方が財政破綻をきたし、結局1872年から1877年までバラキレフは音楽界から身を引き、グループとの関係を持つことを望んではいないという状態でした。

自然、ムソルグスキーとも疎遠になっていったのでしょう。

 

「ボリス・ゴドゥノフ」を改めて聴いて、このオペラの根底に流れるもの、時代や立場といったものから避けられぬ<運命>みたいなものを感じました。

それは主人公?のボリスに限らず、息子フョードル、娘クセーニャ、偽ドミトリー、腹黒いシュイスキー、マリーナ、ランゴーニ、ワルラームやミサイール、旅籠屋の女将、ミチーハやその他民衆、それから老僧ピーメンにいたるまでそれぞれの<運命>を生きていく。

それは避けられない通り道であった。

そのように感じました。

(たった一人、この<運命>とか<宿命>とかいったものの外にいる人物はいるのですけれど。)

 

そしてムソルグスキーにとっても。

 

③ラローシとチャイコフスキー

五人組の無料音楽学校と対立したサンクト・ペテルブルグ音楽院の最初の卒業生は、チャイコフスキー、その1年後にゲールマン・ラローシが続きました。

ラローシの1874年の「ボリス」批評は、このようなものだったのです。

ラローシュはグリンカに関する見事な論文を書いたためにロシアの楽界で非常な好評を博した人であるが、『ボリス』を批評するに際しては如才ないが、悪意に充ちたものであつて、全くこの作品を理解することが出来なかつた。その不器用な手際は素人風であるとさへ評した。そしてムッソルグスキーには『すくなからぬ力量のあることは疑ふべくもないが、何等の知識も、技能も、知的教養もなく、ただ自由主義的傾向をもつて知られてゐる仲間の現代ロシア作曲家に属する』とラロシュは評した。多数の嬰記号や変記号を有する音調をよく用ひるのを批難し、次のやうに言つてゐる―『それらの音調がピアノの上ではよく響くが、管弦楽へ適用すると、重苦しくて感心できないことは我々がよく承知してゐる通りである。』ラロシュはこの『職業的批判』の結論に際して、呻き声のやうな口調を放つてゐる―『かかる優れた才能が、写実主義の音楽家に賦与されてゐることが嘆かはしい。』

(「ムッソルグスキー 荒野・暴風・生涯」オスカー・フォン・リーゼマン著、服部龍太郎訳、興風館、昭和17年)

モスクワでのこのラローシの批評が、多年にわたって保守的な音楽家に決定的なものとして受け容れられたようで、ムソルグスキーにとって極めて不利に働きました。

 

④チャイコフスキー

ラローシの友人であったチャイコフスキーもその意見を受け容れました。

『ボリス』に関しては、兄弟モデストに宛てて次のやうに書いてゐる。(1874年10月29日)『ムッソルグスキーの音楽なんかは、消えてなくなつたらよい―あれは本物をもぢつた、野卑で下劣なものである。』フォン・メック夫人に宛てた手紙(1877年12月24日)では、もう少しおとなしい口調で言つてゐる。『ムッソルグスキーはもう駄目であるとお考へになつても間違ひではありません。彼は仲間の中で一番才能があるかもしれません。しかし彼は自分の欠陥を生かして利用しようといふ気のない男で、その小さい仲間の笑止千万な理論があまりにも根強く染み込んでゐるばかりでなく、自分自身の天分を信じ過ぎてゐます。彼はどつちかといふと、下品な型で、野卑で洗練されない、醜悪なものを好んでゐます。…彼は自分に教養が欠けていゐることに惚れ込み、無頓着であることを誇りとしてゐるやうです。頭に浮かぶものを何でも作曲し、自己の天分が絶対確実なものと盲目的に信じてゐるのです。たまには非常に独創的な考へをすることは事実です。彼の作曲する手法は優美ではないが、それが俗悪であるにも拘らず、新しいものです。』

(「ムッソルグスキー 荒野・暴風・生涯」オスカー・フォン・リーゼマン著、服部龍太郎訳、興風館、昭和17年)

チャイコフスキーにとってムソルグスキーは野卑で洗練されない音楽家と映っていました。

 

⑤キュイ

五人組の仲間であるキュイは、当然「ボリス」を讃美する評論を書いたはずです。

と、と、ところがです!

この偏屈野郎は「ボリス」をこともあろうにこてんぱに批難したのです!

勿論キュイは『ボリス』を賞賛した。しかしその賞賛の言葉には、作品の細部に亘ってのみならず、本質的な性質に関して悪意と怨恨との口吻が含まれてゐたので、賛成的な言ひ廻しも全く水泡に帰するほどであつた。その酷評は『幾多の場面に於ける貧弱な音楽的興味』(例へば密室の場と庭の場における)に対し、『音の画面に於ける粗悪な音色を用ひてゐること』(どこにそんな音色があるのかを疑ふ!)に対し、『重要でない細部の音楽的描写』に対し、『短くて切れ目の多い叙唱』『曖昧な楽想』『喜劇と悲劇の醜い混合』に対して向けられてゐる。『作曲者は交響的伴奏を作りあげることも出来ず、楽想を展開することも出来ない』そして全体を通して『未熟さ』が顕著であると批評した!最後にキュイは不平の口調を以て『何等の実際的な自己批判が行なはれてゐない』と言ひ、『自己満足な向ふ見ずの作曲法』としてゐると断じた。

(「ムッソルグスキー 荒野・暴風・生涯」オスカー・フォン・リーゼマン著、服部龍太郎訳、興風館、昭和17年)

キュイは当時自分のオペラ『ラトクリフ』が省みられないのを不服に思っていたに違いありません。

キュイはまた「ボリス」の作曲に対してアドヴァイスを与えていたにもかかわらずです!

 

ムソルグスキーは、この仲間を「卑劣な反逆者」と呼ぶようになります。

今までバラキレフやキュイの指導を受け、ロシアに新しい音楽を創造していこうと団結していた仲間のこの裏切り行為によって、人間が信じられなっても当然と言えるでしょう。

 

リムスキー=コルサコフが後に「ボリス」を編曲した時、キュイはなんと「私は心から古い版が良かったと認めざるを得ない」と批評したのです!

なんたる奴でしょう!

 

ムソルグスキーは「ボリス」を創作していたころ、1868年兄がペテルブルグを去り、友人でアマチュア歌手であったウラジーミル・オポチーニン家に厄介になっています。

それは1874年のウラジーミルの妹ナジェージダ・オポチーニナの死まで続いたようです。

 

その間1871年から1873年にムソルグスキーはリムスキー=コルサコフと意気投合し、共同生活をしています。

この間「ボリス・ゴドゥノフ」第2稿を作曲し、リムスキー=コルサコフはオペラ「プスコフの娘」を作曲しています。

 

⑥リムスキー=コルサコフ

五人組の一番若い仲間であるリムスキー=コルサコフはムソルグスキーをどう評価していたのでしょう。

自伝にはこう書いています。

ムソルグスキーの没後、私は彼の音楽的遺産のすべて―原稿・草案・スケッチ―を保管し、整理し、完成し、出版する準備をととのえた。…これらの作品はことごとくきわめて未完成な状態にあった。不快でまとまりのない和声が不合理な音階と交替であらわれるし、転調はところどころ恐ろしく非論理的であったり、部分的にはまったく転調のないところもあった。それにオーケストレーションはこの上もなく不運なできばえであるーどこをとっても、大胆で自惚と重なったディレッタンティズムの証である。たしかに技術的な巧みさとか洗練の要素は存在しているのだが、こうした全き技術的無能の後ろに隠れてしまっている。それでもなお、これらの作曲の大部分にすぐれた才能が認められるし、きわめて独特で、新奇で、生気があるので、その出版は絶対に必要だと思われた。

(「ボリス・ゴドゥノフ」名作オペラブックス24、アッティラ・チャンパイ&ティートマル・ホラント編、小山内邦子・園部四郎訳、音楽之友社、昭和63年)

見ての通り、リムスキー=コルサコフは、ムソルグスキーの新しい音楽の創造という考えを全く理解せず、素人同然と評価していたのです。

内心はこんなことを考えて、上辺だけで付き合っていたかと思うと非常に腹立たしく思います。

 

さらに「ボリス」の編曲に関しては次のように言っています。

(1889年の「指輪」公演を聴いて)ワーグナーのオーケストレーションには、私もグラズーノフも深い感銘を受けた。そしてそれ以来、彼のオーケストレーション技法を次第に自分のものにしていった。ワーグナーを模範にしたオーケストレーションと金管合奏を強めたオーケストラを用いて私が最初にした仕事は《ボリス・ゴドゥノフ》のポロネーズのオーケストレーションだった。…(ムソルグスキーは)1873年の上演のために、<ポーランドの幕>をほとんど弦楽器のみで作曲していたのだ。…この<王の24本のヴァイオリン>風のポロネーズは、当時の上演では何の効果もあげなかった。それゆえムソルグスキーは、その翌年全オペラ上演のために新たにオーケストレーションしなおしたのだ。しかしまたもや適切なものはでき上がらなかった。そこで私は、このまさに表現力豊かで美しいポロネーズを演奏会用の曲に改作することにした。というのも、《ボリス》自身はもうそれっきり上演されなかったからである。私がこの基本的には取るに足らない仕事により詳細に立ち入ったのは、これが新しいオーケストレーションの芸術を目指す私にとって初めての試作であったからだ。

(「ボリス・ゴドゥノフ」名作オペラブックス24、同上)

つまりリムスキー=コルサコフの「ボリス」は、ムソルグスキーの意図を伝えるというものでなく、自分自身のワグナー風の管弦楽のための試作だった。

 

「ボリス・ゴドゥノフ」(名作オペラブックス24、同上)の著者は、次のように断罪します。

彼は1875年頃からシステマティックにアカデミックな書法に励み、後にその観点から、善意からではあるが、ムソルグスキーの作品を改良ではなく改悪している。こうしてバラキエフ派の決定的な反対派となったのである。

その背後には、音楽のプロとは完璧に伝統的なメティエ(手法)を習得して初めてそう呼べるのだという芸術観が隠されている。一方ムソルグスキーの特性は、まさに堅実なアカデミックな書法を超えて、妥協のない真実でリアリスティックな音楽表現を、因襲的なメティエの踏みならされた軌道に頼ることなしに考え出すことの中にあった。

 

リムスキー=コルサコフは、1871年から五人組と敵対していたペテルブルグ音楽院の作曲家の教授になりました。

最初五人組の仲間も敵の動向がわかるということで、この就任に喜んでいましたが、ミイラ取りがミイラになってしまったのでした。

そして1874年海軍軍楽隊監督任命され、職業音楽家へと変身していきました。

つまらぬ林野庁の仕事をしなければならなかったムソルグスキーは、どんなに職業音楽家になって音楽三昧したかったかを思うと胸が痛みます。

 

⑦ボロディン

五人組のもう一人ボロディンはこのころ、仲間から離れ、高等女子医科学校設立に打ち込んでいました。

70年代には、バラキレフ派の友人たちのうちボロディンだけがムソルグスキーに元どおりの心のこもった関係を保っていた。ボロディンは、仲間たちの裏切りを静かに耐えていた。彼の性格が、穏やかであったからであろう。(シェスタコワに宛てて、ムソルグスキーは「ああ、ボロディンが怒れたならば、」と書いている)。

(「ムソルグスキー その作品と生涯」アビゾワ著 伊集院俊隆訳 新読書社)

 

かくて五人組は、まさに「ボリス」を契機に崩壊があらわになったのです。

そしてムソルグスキーへの周りの無理解は続き、彼の孤立、孤独は、友人ハルトマン、ナジェージダという二人の死によってさらに深くなり、心は閉じていったのでしょう。

 

⑧スターソフ

五人組の思想的支えになっていたウラジーミル・スターソフは、「ボリス」作曲に積極的に協力し、賞賛していました。

しかし、スターソフは人民主義(ナロードニキ)、民主主義を目指す芸術を支持していたので、1874年にクロームィの場面を削除することに同意したムソルグスキーともめたようです。

しかしムソルグスキーはむしろその削除に同意していた。

この幕で、私はロシアの民衆について、生涯でただ一度だけうそをついた。民衆が大貴族[フルシチョーフ]を嘲弄するのは、真実ではない。これはロシアの特徴ではない。怒り狂った民衆は犠牲者を殺したり、処刑することはあるが、嘲弄することはない。

(「ロシア音楽史」フランシス・マース著、森田稔・梅津紀雄・中田朱美訳、春秋社)

スターソフは自分自身の理想に従ってムソルグスキーを人民主義者とし、「ボリス・ゴドゥノフ」の改訂に公式に抗議した、晩年の作品では芸術的な衰えが見える、自分の運命に失望してアルコールに溺れたというような神話、伝説を作り上げたようです。

一方ムソルグスキーは「ボリス」初演以後も死にいたるまでスターソフを心からの友と手紙に書いています。

しかし、繊細なムソルグスキーのことです、微妙な食違いを感じとってていたことでしょう。

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diary 2023-8-22 (火) 月齢5.7  晴れ・曇り・雨
ラインの黄金を聴く。
Youtubeにあるボリスはほとんどタイムテーブルがない。
あとで時間があったら作るとしよう。
ゲルギエフの録画が2つあったので載せたが、03は2幕しかないからこれも69年の版だろう。
あとでDVDを確認してみる。
演奏によってカットがあったり順番が入れ替わる。
ボリスの死で終わるよりユロージヴィの嘆きで終わる方がいい。
新国立劇場のVも期間限定で見られるので05番目に載せた。
日本語の字幕設定にすれば内容がわかる。
衣装や舞台装置が大変だろうが現代風にするより作者の意図に沿った演出が好きだ。
47000文字を超えた。

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