シューベルト 「冬の旅」についての記録(5)

シューベルトの「冬の旅」についての記録5。弦楽四重奏や弦楽五重奏、歌曲などに話題が移るがすべて「冬の旅」に関わる問題でもある。

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31 シューベルト:弦楽四重奏曲第15番ト長調 D.887(1826年)(2)(2009/8/22 )

弦楽四重奏曲第15番ト長調 D.887(1826年)

 第1楽章 Allegro molto moderato

 第2楽章 Andante un poco molto

 第3楽章 Scherzo; Allegro vivace

 第4楽章 Allegro assai

第一楽章は、波が岩に打ちかかるような、ものすごいエネルギーが吹き付けるような始まり。そしてトレモロ。このトレモロは、ちょうどブルックナーのような、朝霧や雲海を思わせる。その中からヴァイオリン、続いてチェロの音が響いてくる。これがその問いであろうか。「存在の問い」、か。そのトレモロの霧がさっと晴れると、あのエネルギーがしだいに集まってきて、第13番「ロザムンデ」の4楽章で聴いたハンガリー舞曲風の、誕生の喜び、命を謳歌するような晴れやかなメロディが現れる。このなんと胸のすくこと!短調と長調の交替、短調と長調のエネルギーのうねり、緊張と弛緩、明と暗、重音の波、その中のあの命の謳歌のメロディ。なんと素晴らしいのだろう!聴きこめば聴きこむほど、この曲の素晴らしさが解ってくる。

第二楽章は、「存在の悲しみ」だろうか。チェロの歌は、何かを背負って歩んでいくかのようだ。さすらい人の、孤独と憂愁、そして孤独の平和。ここでのトレモロは、「不安に揺れる心の震え」でもあるだろう。悲しみ、不安、気持ちのゆれが続くのに、この楽章の最後のなんと柔らかく安らかなこと!

第三楽章は、スケルツォで軽快。この楽章の白眉はなんといっても、あのトリオだ。チェロが導く、ハンガリー風のメロディ。ああ、なつかしい!なんと、和やかなこと!憧れていた、あの夢の国はここにある!この楽章は「存在の温かさ」だろうか。

第四楽章は、タランテラ。「死と乙女」の死者が踊るタランテラとは趣が違う。ここでも短調は長調に変わり、長調は短調に変わる。エネルギーのうねりが押し寄せて、運命の動機も聴かれる。その中で奏されるヴァイオリン、チェロに引き継がれる歌は、悲しみをたたえている。明は暗になり、暗は明になる。そして、クライマックスだ。内声は変化するが、ヴァイオリンは緊張をはらんだ同じ音を繰り返し打ち鳴らす。何度も、何度も!クレシェンドしていって緊張が頂点に達したところで、大解決がやってくる。そして最後は、重音で、長調の解決。大満足、大肯定の大解決だ。なんと素晴らしい音楽だろう!この楽章は「存在の歌」とでも言おうか。

まとめると、「存在の問い」「存在の悲しみ」「存在の温かさ」「存在の歌」と聴いた。

石井誠士氏はこの曲について、次のようの述べている。

死の凝視による生の充実 ― シューベルトの創造的生を一言で言えば、そういうことになる。殊に、彼の最後期の作品はそれを表現している。例えば、弦楽四重奏曲ト長調(D887)がそうである。1826年6月に一挙に仕上げられたこの四重奏曲は、二年前の二編、弦楽四重奏曲イ短調(D804)とニ短調(D810)の両方を越え包む内容をなしている。イ短調の曲が「憂愁」、ニ短調が「生と死」だとすれば、ト短調四重奏曲は「尊厳ある生」である。イ短調が叙情的に傾くのに対し、ニ短調とト長調はともに劇的である。この後の二曲は、いわば表裏の関係をなしている。

すなわち、前者が、生と死が対立する生の無常と死の必然性を表現するのに対し、後者は、むしろ、死を転換の契機とする生の絶対肯定性を表す。特に両者の第三楽章スケルツォのトリオや終楽章のタランテラにおいて、その対照は顕著である。トリオで、前者では、いわば、生のはかなさが歌われるのに対し、後者では、むしろ生を慈しむ落ち着いた柔和なこころが示される。また、タランテラでも、前者が荒々しい死の乱舞であるのに対し、後者は、騎士の高貴な従容とした歩みでもある。

この曲では、特に第一楽章の曲頭によく出ているように、短調と長調との交代、というよりもその交錯が大きな特徴をなしている。また、これほど音の跳躍やトレモノを伴ったメロディの起伏の激しい音楽もない。しかし、シューベルトがここで示そうとしたのは、まさに「明暗雙々」、明と暗との相即不離、あるいは、「動静一如」、動と静との一体不二をなす真に充実したいのちの躍動なのである。

終楽章の展開部で、曲が高揚していって、強音で和音 ―第一ヴァイオリンとチェロは同音― を引き延ばしてうち鳴らすところがある(第378-88小節、第427-28小節)が、それがコーダでもう一度帰ってきて最後のピークを築くときは、最強音で、しかも八小節も、まるで音楽が終わってはいけないように続く(第671-78小節)。

この、アドルノのいわゆる「時が燃える」フィナーレにおける存在に対する絶対的肯定は、ハ長調交響曲のフィナーレのそれと比べても、より確実であり、落ち着いている。(資料①P312-313)

今回は、「時が燃える」メロスSQの新盤とホイトリングSQ盤で聴いた。まことに「尊厳ある生」「死を転換の契機とする生の絶対肯定性」、そのとおりだ!

参考資料

①石井誠士「シューベルト 痛みと愛」春秋社 1997

②前田昭雄「シューベルト」春秋社 2004

③喜多尾道冬「シューベルト」朝日新聞社 朝日選書584 1997

④CD:Melos Quartett rec.1991 harmonia mundi HMA 1951409

⑨CD:Quatour Heutling rec.1968-71 EMI Music France 7243 4 71942 2 1

 

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32 「シューベルトの手紙」 (2009/9/24)

シューベルトや「冬の旅」について、多くの思想家が著作を著している。これは一体どうしてなのだろう、そう思った。後期弦楽四重奏曲、弦楽五重奏曲を聴き続けている。幸運にも入手することができたO・E・ドイチュ編實吉晴夫訳「シューベルトの手紙」(メタモル出版1997)を読み終えた。最後の、ショーバーへの本を依頼する手紙を読んでいるとき、LPでグリュミオの演奏した弦楽五重奏を聴いていた。ちょうどあの、時間が静止してしまったかのような、第2楽章アダージョだった。グリュミオのヴァイオリンのなんと美しいこと!万感胸に迫って、涙が溢れた。

「シューベルトの手紙」を読むと、シューベルトがいかに純粋で、誠実で、真剣に人生について考え、深めていったかが解る。人生について、死について、痛みと愛について、正面から向かい合い、それを音楽という形にして残した、そう思えるのだ。重いこれらの課題を、シューベルトの音楽から聴き取る人は、生と死に誠実に向き合う思想家に違いない、と思う。そして、その課題を音楽に結実させた最も偉大な作品が、この弦楽五重奏曲ではないか、そう思えてきた。それは、「冬の旅」の主人公のその後の生き方であり、人生の捉え方そのものである。

「シューベルトの手紙」にはシューベルトの遺品目録が載っている。死者の蔵書はすべて検閲の対象となった、とある。検閲の厳しい時代、「冬の旅」の詩の隠喩を思い出した。

 

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33 シューベルト 「プロメテウス」 D.674 (1819年)(2009/10/24)

人間の存在は、苦しみに満ちている。現実の底は、空虚である。しかも、この存在は肯定されねばならない。しかしながら、シューベルトのこの肯定性は、決して、単に人間の意志の決断によるのでもなければ、単に超越的な神によるのでもない。それは、存在それ自身から来る。実存は、その有限性において無条件に肯定されるのである。

シューベルトのこの徹底的な現実肯定の態度は、現実に対しただ妥協的・迎合的であるような外観を呈する。しかし、真実には、これこそ真に創造的なものなのである。彼は、この思想をゲーテの詩との対決によって深め、確証する。ゲーテの詩がそうであるように、シューベルトの音楽も、思想的である。彼の作品を理解することが、当時においても、今日においても、困難である理由の一つがここにある。(石井誠士「シューベルト 痛みと愛」p.182-183)

石井誠士氏は、「造反の創造者 ― プロメーテウス」と題する章をこのように始める。

「プロメテウス」を聴く。

言うまでもなく、プロメーテウス ― ドイツ語では、プロメートイスと読んでいるが ― は、ギリシアの神々の中で、最もキリストへの類似性を持った神と見られる。彼は、自らの姿にかたどって人間を創造した。さらに、彼は、天から火を盗み取り、管の中に隠してこっそりと地上の人間に送り届けた。そのためにゼウスは怒って、彼をコーカサス山中の岩に縛りつけ、鷲に彼の肝臓を啄ばませた。彼の肝臓は夜の間に元通りに戻るが、あくる日にはまた食いちぎられるのであった。人間への愛の故に受難する神、それがプロメーテウスである。キリストとの違いは、キリストが、人にして神であるのに対し、プロメーテウスは、どこまでも神であるところにある。(石井誠士「シューベルト 痛みと愛」P.184-185)

「プロメテウス」は1819年、シューベルト22歳のときの作品である。

プロメテウス D.674 詩:ゲーテ

おまえの天を覆え、ゼウスよ、雲の覆いで
そしてアザミを切り落とす子どものように
樫の木の上や山の頂でやってみるがいい
でもおまえは私の大地に手をつけてはならない
そしておまえが建てたのではない私の小屋も
その輝きをおまえが妬む私の炉も

私は太陽の下、おまえたち神々ほど哀れな者を知らない
供物と祈りの息でおまえの威厳をやっと保っているのだ
そしてもし子どもや乞食が崇め続ける愚か者でなかったら
おまえたちは飢えているだろう

私が子どもで、ものを知らなかったとき、
迷える眼差しを太陽に向けたものだ
あたかもその向こうに、嘆きを聴いてくれる耳と、
私の心と同じような、苦しむ者に哀れみを与える心があるかのように

タイタンの傲慢な思いあがりとの争いから、一体誰が私を救ってくれたか
死と隷従から、一体誰が私を救ってくれたか。
神聖で情熱的なこころよ、おまえがすべて成し遂げたのではなかったか。
そして若く善良だったゆえにだまされ、
天上に眠る者に救われたことの感謝を捧げたのではなかったか?

私がおまえを敬うだって。何のために
いったい苦しむものの苦痛をおまえは安らかにしたことがあったか
いったい悩む者の涙を乾かしたことがあったか
私やおまえの主人である全能の時と永遠の運命が
私を一人前にしてくれたのではなかったか

すべての麗しい夢がかなわないからといって
私が人生を厭い
荒野に逃れるとでも思っていたか

私はここに座って私自身の姿に人間を創る
私と同じ種族を
苦しみ、嘆き、楽しみ、喜ぶ
そしておまえを敬わないのだ
私と同じように

(hyperion COMPLETE SONG Richard Wigmore氏の英訳参照)

力強く神々に挑む歌だ。自信に満ちたピアノの和音で終わる。ディスカウとハンプソンで聴いた。

芸術家は孤独である。芸術家に限らず、人は、自己の存在理由を決して他から教えられて知るのではない。自己の存在理由は、まさしく自己自身に向かって問い、自己自身から答えを得るほかない。人間の本質的なものは、その創造性にあるが、人は、創造的精神を誰かから承け継いで自分のものにするのではない。彼はそれを彼自身から得るのである。他に求めてそれを得ようとし、師からそれを得たと思うのは、弟子の怠惰な不真面目なこころである。また、それを他に教えて授けようとするのは、師のうぬぼれた不遜な心である。(石井誠士「シューベルト 痛みと愛」P.193-194)

シューベルトの歩みは自己の存在理由の探求の歩みでもあると言えるだろう。その探求は、弦楽四重奏曲13番・14番・15番、「冬の旅」を経て、弦楽五重奏曲に到る。弦楽五重奏曲 D.956 こそその到達点と言えるのではないか。そして、「冬の旅」の辻音楽師への心の中での問いかけに対する答えがこの弦楽五重奏曲にある、と思う。

参考資料

①石井誠士「シューベルト 痛みと愛」春秋社 1997

②CD:フィッシャー=ディスカウ&ムーア、シューベルト歌曲大全集 ポリドール

③CD:グレアム・ジョンソン(ピアノ)シューベルト歌曲大全集 ハイペリオン

 

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34 シューベルト「人間の限界」 D.718 (1821年)(2009/10/26)

「プロメテウス」と全く反対の立場に立つような「人間の限界」を聴く。詩は同じくゲーテ。1821年3月、シューベルト24歳のときの作品だ。

人間の限界 D.716 詩:ゲーテ

太古の聖なる父が穏やかな手で
うねる雲から地上に慈悲深い雷光を撒き散らすとき
私は心の奥深くに子どものような畏敬をもって
その衣の端にキスをする

なぜなら神と人間を比べることなどできないから
もし人間が伸び上がり頭を星に届かせたとしても
足元には確かな足場はなく雲や風がもてあそぶだけだ

もし人間が固く頑丈な大地に
力強い肢体でしっかりと立ち上がっても
樫の樹やブドウの樹ほどにも届かない

神々と人間を区別するものは何か
神々の前には永遠の流れがあり、多くの波がうねってくる
しかしその波は私たちを持ち上げ、
飲み込む、そして私たちは沈むのだ

一つの小さな輪が私たちの命を限っている
そして多くの世代がその存在の無限の鎖の中で
永遠に繋がっているのだ

(hyperion COMPLETE SONG Richard Wigmore氏の英訳参照)

石井氏は「『プロメーテウス』が反抗と自己肯定の音楽であったとすれば、こちらは、内省と諦観の音楽である。」と言う。ピアノ前奏から「内省と諦観」の音楽だ。淡々と浪々と真理が歌われる。落ち着いた静かな低音で歌い終わる。ディスカウとNeal Daviesで聴いた。

『プロメーテウス』と『人間の限界』をつなぐキーワードは、前者において、「清らかに輝くこころ」とか「全能なる時と永遠の運命」とかと言われたものである。プロメーテウスは、それを彼の自律の根拠となし、ゼウスに反抗した。ところが、後者においては、むしろ、その、人間の存在の奥底の永遠なものが、まさしく「人間性の限界」をなすのである。それこそ、人間の内なる尊厳である。人は、独り自らのこころに眼を向けるとき、それに気づく。それは人間において人間を越えたものであり、人はそれに対して畏敬のこころを抱くのでなければならない。人を誇り高くさせるものは、人をへりくだらせるものである。

人間は、自由な主体である。孤独である。しかし、この主体は、他方、同時に、一切の他の存在者に依存しているのである。それは、依存によって自由であり、孤独である。また、それが自由であり、孤独であることにおいて、あらゆる依存的関係が成り立つ。この故に、プロメーテウスの造反は、真理の一面である。そのもう一つの面は、そのような自由の自覚において初めて見られる自らの徹底的な依存性である。自らの命の無限を知って、限られたいのちを生きるところに人間にふさわしい生き方がある。これは矛盾である。しかし、実は、ここにこそ人間の真理がある。いったい、生命があり、生命が生まれて死ぬということが、既に、矛盾ではないであろうか。また、一人の人間が、他の、しかも男と女から生まれるというのも矛盾ではないであろうか。人間の創造性は、その有限性の自覚から切り離されない。人間は死すべきものである。不生不死にして、生まれて死ぬものである。(石井誠士「シューベルト 痛みと愛」P.199-200)

この「人間の限界」で歌われる個人の限界と、「プロメテウス」で歌われたような自己肯定とを並べてみると正に陰と陽だ。シューベルトの音楽には、プロメテウス的なものと人間の限界的なもの両方が表現されている。弦楽五重奏曲ハ長調 D.956 の第三楽章に特にそれを感じる。

「不生不死にして、生まれて死ぬ」とは、まるで禅僧の盤珪さんの言葉のようだ。世代を越えて引き継がれる魂のようなものを永遠の命とみなすことによって、この思想が成り立つ。まるで宗教だ。シューベルトの音楽の肯定性を考えるとき、石井氏の言う「大いなるハーモニーの存在経験」(p.46)がシューベルトの心の中にあることが想像できる。「大いなるハーモニー」はすなわち信仰である。

人は、真摯に生きようとすれば、自己自身に突き戻され、生と死や善と悪などの相対的なものを越えた純粋な生命に目覚める。しかし、私たちは、まさにそこで自己の有限性に気づくのである。人間が世界の中の存在者として死すべきものであり、世界のあらゆる存在者とのつながりにおいてあることを知るのである。プロメーテウス的なもの、人間の無限な創造性は、決してその有限性の自覚を排除するものではない。むしろ、有限性の自覚は、人間の自律、自由の自覚において、初めて成り立つのである。人が自立し根源的に創造的になるのは、自らの有限性を認めて全身心的に生きることによる。限られているからこそ無限であるというパラドックスが人間の生命の根柢的事実である。(石井誠士「シューベルト 痛みと愛」P.205)

シューベルトの音楽に真理を聴くとはこういうことだろう。

参考資料

①石井誠士「シューベルト 痛みと愛」春秋社 1997

②CD:フィッシャー=ディスカウ&ムーア、シューベルト歌曲大全集 ポリドール

③CD:グレアム・ジョンソン(ピアノ)シューベルト歌曲大全集 ハイペリオン

 

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35 シューベルト:弦楽五重奏曲ハ長調① D.956(1828年)(2009/10/31)

我ながら呆れるが、今のところ50ほどの弦楽五重奏曲の録音を8月から聴き続けてきている。飽きるどころかますます興味が募るから不思議だ。弦楽四重奏曲第13番が憂愁、14番が死の凝視、15番が存在の問いと大まかにくくってしまうと、その延長線上にある弦楽五重奏曲はそれらすべてを網羅して昇華した、存在の歌とでも表したくなるような最高傑作だ。シューベルトの死の2ヶ月前の作品、最後の室内楽。

さすがこれだけ録音を聴いていると、この演奏も良いあの演奏もということで何がなんだかわからなくなってくる。そして実際、名演奏が揃っている。それでも、比較していてあの演奏はどうだったっけと何度でもその演奏に戻る録音がある。その第一がチリンギリアン・カルテット Chilingirian Quartet の演奏だ。各楽器のバランスが良く、重音のときファースト・ヴァイオリンがきりりと立つ、そしてリズムが生き生きとしている。何度でも聴きたくなる演奏だ。

第一楽章の最初の4小節だけを聴くと、何か深いため息のように聴こえる。しかしそれに続く優しい旋律で生き返る。それまでの弦楽四重奏曲に比べて落ち着いた静かな出だした。すべてを見通した諦観が感じられるが、そこから"歩み"が始まるのだ。そして輝かしくまばゆいの音の光が噴き出す。音色の変化の見事なこと!2つのチェロが導き、次にヴァイオリンに引き継がれるメロディのなんと愉しいこと!リズムを刻むセカンド・チェロの動きがいい。ヴィオラとファースト・チェロの三連符もそうだが、どこか美しい風景や山並みを朗らかに歩くようだ。良いことも悪いことも、楽しいこと悲しいことも、もうそんなことは越えてしまった、はるかな風景の散策。1825年の夏、シューベルトは歌手で友人のフォーグルと一緒にガシュタイン地方を旅する。そして父親・継母へと、兄フェルディナントへ長い手紙を書いている。大自然に触れてシューベルトがいかに感動しているかが手に取るようによくわかる。この曲のこの部分は、雄大な大自然の中を愉しみながら歩んでいる、そんな気がしてくる。そしてこのヴァイオリンとセカンド・チェロの音型も"歩み"を感じさせる。"歩み"といえば「冬の旅」を思い起こすが、ここでの"歩み"はなんと爽快なのだろう。このリズムのヴァイオリンとチェロの掛け合いの部分は、力強く前進しようという強い決意を感じる。最後はコラール風の優しい部分があり、ピリオドを打つ重音、そしてクレッシェンド、ディクレッシェンドの全音符で終わる。重音がフレーズの転換やピリオドに効果的に各所に使われている。それが鳥肌が立つほど素晴らしい。

ペーターゼン・カルテット Petersen Quartet の演奏はこの重音がなんとも言えずいい。タイミング、長さ、バランス、すべてが揃っている。胸のすく演奏だ。

参考資料

①音楽之友社 作曲家別名曲解説ライブラリー⑰「シューベルト」1994

②FRANZ SCHUBERT Complete Chamber Music For Strings, Dover 0-486-21463-X 

③CD:Chilingirian Quartet + Janet Wald Clark(cello) rec.1981? EMI classics for pleasure 50999 2 28282 2 4

④CD:Petersen Quartet + Michzel Sanderling(cello) rec.1996 CAPRICCIO 10 788

 

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36 シューベルト:弦楽五重奏曲ハ長調② D.956(1828年) (2009/11/5)

第二楽章。まるで時間が止まったようだ。セカンド・ヴァイオリン、ヴィオラ、ファースト・チェロの創りだす厚い和音の世界が出現する。このゆったりとした音の流れはなんと心地よいことだろう!夜、この楽章を聴いていると、ふっと意識がなくなることがたびたびある。いつの間にか眠ってしまうのだ。力強い3楽章が始まって驚いて起きる、その繰り返しだ。この豊かな流れの上をセカンド・チェロのピチカートを伴って、ファースト・ヴァイオリンが優しく歌う。弦楽四重奏曲全集も出しているシネ・ノミネの演奏は、とても細かなニュアンスの変化を見逃さない。普通13~14分の演奏時間もシネ・ノミネは16分28秒、じっくり聴かせてくれる。これもベストな演奏だろう。心地よい響き。幸せだ。この音楽を聴いていると、亡くなった母や兄、祖父や祖母が自然と思い出されてくることがしばしばだった。昔、一緒に過ごした楽しいときの一場面。どの顔もニコニコしている。楽しい時ばかりでなく、苦しいとき悲しいときが多かったはずなのに、なぜか浮かんでくるのはみな生き生きとした笑顔だ。

さすらいの孤独の中の幸福を想った。あるいは、まどろみ。弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」第3楽章の冒頭は「ギリシアの神々」からとられていた。その「ギリシアの神々」で歌われたような幸福な日々への回顧のようにも感じる。

アイザック・スターンの1993年録音のCD解説には、アルトゥール・ルービンシュタインの次のような話が載っている。以下は、原解説からのディヴィッド・グレイソンの一文である。この演奏の有様をよく伝えているので、翻訳でご紹介することにした。

『フランツ・シューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調作品163は、弦楽器奏者だけではなく、あらゆる音楽家たちの心の中に特別な位置を占めている。偉大なピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインは、彼がこの曲を初めて聴いた1913年の、当時最も名高い演奏者たちによって「深い霊感を持って」奏された演奏を鮮やかに思い起こした。その演奏者たちとは、ジャック・ティボー(ヴァイオリン)、パウル・コハンスキ(ヴァイオリン)、ライオネル・ターティス(ヴィオラ)、パブロ・カザルス(チェロ)、そしてアウグスティン・ルビオ(チェロ)の5人である。「それを聴いたときの私の感情は言語を絶したものだった。私に言えるすべては、その夜からあと私は、自分の死の時にはこの曲の天国的なアダージョ楽章の平穏と慰めの響き(真実のあるいは創造上の)に護られることを願うようになった、ということである」。それからほぼ40年のちの1952年7月に、カザルスは、若いヴァイオリン奏者アイザック・スターンを含む別のグループと、五重奏曲を演奏した。その彼アイザック・スターンは、今度はそれから40年以上を経た今日、同じ作品でまた別の若い音楽家グループを率いている。こうして80年以上も前のルービンシュタインの忘れられない夕べとの、生きた関連が与えられるのである』。(CD:sony SRCR 1768 佐々木節夫氏の解説と訳から引用)

私もこのアダージョを頭の中で聴きながら死んでゆきたいものだ。このような平和な気持ちで死ねたら、これ以上の幸福はないと思う。それはとてつもなく難しいことと思われる。今ここを大事にして、今を充実して生きることが一番この死に方に近づくことかとも思う。死について身近に考えるようになるとは、私も死が遠い先のことではないのかもしれない。そして、母や兄に会えると思うと死が終わりでなく始まりでもあるようにも感じられるようになった。

続く中間部は、曲想ががらりと変わる。はらわたがえぐられるような深い悲しみ、パッションが噴出する。セカンド・チェロの3連符のフレーズを聴くと腹の深いところが熱くなる。同じくセカンド・チェロの32分音符と4分音符のタイでつながれた音形がとても印象的で耳に残る。真の深い幸福は、このような深い悲しみ、絶望を体験することによって、より確かなものになるのではないだろうか。深い悲しみを持つ人にこそ深い幸福が訪れる。深い悲しみ、絶望を避けたりごまかしたりするではなく、真っ向から受け取り、悩み耐えること、耐える力を身につけ、さらに歩み出すこと、そこに初めて真の幸福が訪れるのではないだかろうか。悲しみの支えを持たない幸福は浅薄な底の浅い幸福のように思える真実はパラドックスに満ちている。

激情が収まるとまたあの和声に支えられた幸福感が戻ってくる。セカンド・チェロの上昇フレーズは水中を揺れながら昇っていく泡のように聴こえる。あのパッションは夢だったのか。ファースト・ヴァイオリンが雄弁に歌いだす。セカンド・チェロとのピチカートがまたいいのだ。豊かな和声の流れの中に一瞬あのパッションがよぎる。しかしもとの平穏が戻って第二楽章は終わる。

コレギウム・アウレウム合奏団のCDを入手した。ファースト・ヴァイオリンのフランツ・ヨーゼフ・マイアーのヴァイオリンがいい。なんでもないようなフレーズを生き返らせ多くの意味を持たせて魂に語りかけてくる。やはり弦楽四重奏曲全集を出している。

アウリン・カルテットの演奏も素晴らしい。こちらは13分18秒の演奏。ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」に出てくるペンダント、アウリンの名をとっているのだから余計贔屓だ。

ハイフェッツのCDを初めて聴いたとき、何だこの演奏は、ソリストだからこんな演奏をするのか、買って損した、と思った。というのは演奏時間が10分22秒、レコードの回転数を間違えたのではないかと思うくらい速いのだ。多くの録音を聴くうち、スメタナ・カルテットの録音に行き着いた。これも10分8秒という速い演奏。 この解説を読んでみると、録音時のプロデューサーの意見をスメタナ・カルテットが不幸にも採り入れてしまってこのテンポで録音したと言う。つまり、この楽章には中間部分にテンポの変更の指定がないので、中間部分に合わせてすべて同一テンポで演奏したというのだ。この解説で初めてハイフェッツとスメタナ・カルテットがなぜこんなに速い演奏をしたかがわかり納得した。テンポ変更の指定はないが、どう聴いてもゆったりとしたアダージョのほうが深い。その他の楽章はどちらの演奏も素晴らしいのにたいへん残念だ。

参考資料

①FRANZ SCHUBERT Complete Chamber Music For Strings, Dover 0-486-21463-X 

②CD:Quatuor Sine Nomine + Francois Guye(cello) rec.1999 claves CD 50-2003

③CD:Auryn Quartet + Christian Poltera(cello) rec.2001 TACET 110

④CD:アイザック・スターン&リン… rec.1993 ソニー SRCR 1768

⑤CD:ハイフェッツ、プリムローズ… rec.1960 BMG BVCC-37122

⑥CD:The Snetana Quartet + Milos Sadlo(cello) rec.1973 TESTAMENT SBT 1120

⑦CD:コレギウム・アウレウム合奏団員 rec.1980 BMG BVCD 38056-7

 

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37 シューベルト:弦楽五重奏曲ハ長調③ D.956(1828年)(2009/11/10)

第三楽章は力強い音楽で始まる。アクセントの効いた力強い演奏が好きだ。ヴェラ・ベスというヴァイオリニストは知らなかったが、アンナー・ビルスマはバッハの作品でよく知っていたのでこのCDを聴いてみた。弦楽四重奏団として活動している団体の方が素晴らしい演奏をするに違いないと思っていたが、このCDを聴いてそれは全くの間違いだということを思い知らされた。この演奏は本当に素晴らしい。ヴァイオリンがきりりと引き締め、チェロが歯切れよくリズムを刻む。この力強さ、肯定性はあのプロメテウスを思い起こさせる。先へ、さらに先へという無限の創造力を感じる。2度目のメロディを繰り返すときセカンド・ヴァイオリンが華やかに飾る。なんと見事な音色の変化だろう。そしてセカンド・チェロの動きがとっても愉しい。リズムの交錯も見事だ。自然と体が動いてしまう。キリリと締める一部最後の重音の心地よさは格別だ。

ハリウッド・カルテットのファースト・ヴァイオリン(フェリックス・スラトキン)の艶やかな音がたまらなくいい。中間部のトリオは今までとは正反対の内省的な音楽になる。「人間の限界」を思い起こさせる。憂いに満ちたフレーズが何度か押し寄せてくる。しかしそれらはすべて安らかな長調に終結する。こころの底辺に信仰とか確信が宿っているように感じる。大いなる肯定性だ。これも諦観といってよいのだろうか。石井氏の諦観に関する言葉が思い浮かぶ。

諦観とは、決して、挫折して諦めることではない。それは、むしろ、リアルに、変わりゆく現実において変わらぬものをみることを意味する。(石井誠士「シューベルト 痛みと愛」p.311)

無限の創造力や真の力強さはこのような憂い悲しみを包み込む大いなる肯定性(諦観)に支えられている。2つの声部が同じ音で始められ、一方はその音を持続し、もう一方が徐々に下降していくところは印象的だ。深い考えに沈みこむように感じられる。こういう音形は一楽章にも見られた。やがて冒頭の推進力に満ちた音楽が返って三楽章を閉じる。やはりキリリと締まった最後の重音が気持ちいい!二楽章は平穏と激情、三楽章は力強さと内向性、全く正反対と思える音楽が見事に一つにまとまって支えあっている。こんなに性格が違う音楽なのに全く不自然ではない。とても不思議に思う。

録音のせいかメロス・カルテットの1977年の演奏はあまり好きではなかった。弦楽四重奏も再録音しているのだから、五重奏も再録音するはずではないかと思っていたが、やはり録音していた。新しい録音の方が期待通りずっといい。メロス・カルテットのこの楽章を聴いていて、トリオに入る前の第一部後半の繰り返しが違うのに気づいた。手持ちのドーヴァーの楽譜では、繰り返し記号のある小節から26小節前で繰り返しをしている。楽譜どおり繰り返しをすると少し唐突感がある。その唐突感をなくすように演奏者が繰り返しの位置を移動したのだろうか、それともそういう版の楽譜があるのだろうか。1977年のロストロポーヴィチとの録音は楽譜どおりの演奏だった。

興味深かったので少し他の演奏を聴きかじってみた。ブランディス・カルテットも1978年の録音では楽譜どおりで1995年の録音では繰り返しの位置が移動している。聴いた範囲では、繰り返しの位置が前に移動している演奏は、ほかに1986年のジュリアード、アウリン、ヴェルディ、アルテミスのカルテットであった。他の演奏は楽譜どおりか、または繰り返しをしていない。私としては胸のすく重音のピリリとした音が何度でも聴きたいのでこの楽譜どおりの方がいい。

エオリアン・カルテットは好きなカルテットだ。録音がもう少しよければいいのにと思う。生き生きとしてスマートな演奏だ。

また、楽譜どおりの繰り返しをするのだけれども、アウフタクトの小節を除いた最初から2小節目をタイで演奏するライプツィヒ・カルテットの演奏に戸惑った。優雅さが加わったような印象はあるが、私はこの楽譜どおりのほうが力強くて好きだ。

参考資料

①石井誠士「シューベルト 痛みと愛」春秋社 1997

②FRANZ SCHUBERT Complete Chamber Music For Strings, Dover 0-486-21463-X 

③CD:ヴェラ・ベス、アンナー・ビルスマ… rec.1990 ソニー SRCR 8543

④CD:Melos Quartet + Wolfgang Boettcher rec.1993 Harmonia Mundi HMA 1951494

⑤CD:Melos Quartet + Mstislav Rostropovich rec.1977 DG 453 668-2

⑥CD:ブランディス・カルテット + Jorg Baumann rec.1979 Teldec WPCS-22047

⑦CD:Brandis Quartet + Wen-Sinn Yang rec.1995 BRILIANT 99599-3

⑧CD:ジュリアード・カルテット + Bernard Greenhouse rec.1986 ソニー 30DC 5119

⑨CD:Aeolian String Quartet + Bruno Schrecker rec.1966? Regis RRC 1278

⑩CD: Schubert Complete String Quartets Leipziger Streichquartett rec.1994-97 MDG 30706002

⑪CD: The Hollywood String Quartet + Kurt Reher rec.1950 TESTAMENT SBT 1031

 

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38 シューベルト:弦楽五重奏曲ハ長調④ D.956(1828年)(2009/11/21)

第四楽章。ハンガリー風のメロディはハンガリーのゼレチュへの滞在との関係があるのだろうか。ハ短調から始まり、変ホ短調、ホ短調を経て、ハ長調に到る。憂いが様々に変容され歓びへと転じていくようだ。アクセントの効いた演奏が好きだ。初めてカザルス&ヴェーグのこの演奏を聴いたとき衝撃が走った。それまでファースト・ヴァイオリンのメロディにばかり注意が向いていたが、この演奏でチェロのシンコペーションの力強さに気づかされた。確固とした意志、推進力を感じる。

シューベルトはメロディーが素敵な甘い音楽を書いた作曲家とのみ捉える人はその底の深さ、恐ろしさ、素晴らしさを知らない。死を真剣に見つめ、生きるとは何かを音楽で表した人だ。最後の室内楽として死の2~3ヶ月前に作曲されたと考えられているこの弦楽五重奏曲は、その思索の集大成であり、多くの方が語っているように唯一無二の音楽であると思う。このような音楽を他に知らない。

「冬の旅」は恋に破れ絶望した若者が辻音楽師と出会うところで終わる。それは新たな希望の始まりであるのか、絶望の末の暗黒の始まりなのか、その後の若者を知りたいと思った。「冬の旅」の後に書かれたこの弦楽五重奏曲に聴かれるのは、喜びも哀しみもはるかに超えた確かな歩みである。歌曲ではテキストに制限されるが、器楽曲では作曲家の考えがそのまま反映される。多くの作品で聴かれるシューベルトの肯定性から「冬の旅」は器楽作品の第二楽章に相当するのではないかと思うようになった。

ファースト・ヴァイオリンの全音符がたまらなく好きだ。チリンギリアン、シネ・ノミネ、ヴェラー、コンツェルトハウス、プラジャーク、グリュミオー、これらのカルテットでこの音を聴くと鳥肌が立つ。中でもグリュミオーの音は飛び切りだ。そして中間部の全休符の後の優しい響きも素晴らしい。フェルマータの後に続くおおらかな歌の愉しさと言ったらたまらない。ここでも1楽章と同じようにシューベルトがガシュタイン地方の雄大な大自然の風景の中を愉しそうに歩いているように感じる。続くファースト・ヴァイオリンのアルペジオを聴いているとシューベルトが鼻歌を歌いながら山歩きを愉しんでいる光景が浮かぶ。喜怒哀楽に左右されず、今ここに集中してそこに愉しみを見出そう、そう言っているようだ。ここでも「歩み」を感じるのは「冬の旅」に強い関心をもっているからであろうか。

アドルノが、今日でもシューベルトの最後のピアノ・ソナタ変ロ長調や弦楽五重奏曲などに現れた彼の根本的態度の特徴づけによく使用される「諦念」の概念を斥けたことも納得できる。「諦念」は、一九世紀のロマン主義の産物に過ぎない「諦めから出てくる和解の見せかけは、シューベルトの慰めとは全然関係ない。この慰めによってこそ、自然の束縛の強制が必ず何らかの限界に到るという希望が示されるのである。」と彼は言う。

シューベルトの「時が燃える」フィナーレにおいて顕著なことは、讃歌的な高揚や内に充実した喜びの表現である。(石井誠士「シューベルト 痛みと愛」P.277)

この弦楽五重奏曲を聴いて感じるのは消極的な「諦め」ではなく、積極的な「明らめ」だ。哀しみや絶望を知らない能天気な陽気さではなく、絶望も歓喜も何もかも心に収めた上での陽気さだ。三昧という言葉が浮かぶ。この音楽に「彼岸」を聴く人も多いが、私は「此岸」を聴く。これはあの辻音楽師が「絶妙な無関心さ」で世の中を渡っているのに対して、何もかも見通した眼をもって三昧に生きる処世術であるように思う。

TV番組の「エチカの鏡」(11月15日放送)で終末期医療の大津秀一医師の「死ぬときに後悔する25のこと」が紹介されていた。

・健康を大切にしなかったこと・遺産をどうするか決めなかったこと・夢を叶えられなかったこと・故郷に帰らなかったこと・行きたい場所に旅行しなかったこと…などと続き、最後は、・愛する人に「ありがとう」と伝えなかったことで終わる。

一日一日、瞬間瞬間を集中し充実することこそ後悔の少ない生き方、死に方であろう。

最後はアドルノの言う「時が燃える」フィナーレだ。カザルスとヴェーグの演奏は、白熱した、手に汗握るフィナーレになっている。こんな演奏を生で聴いた聴衆がうらやましい。教会か何かの理由で拍手の音が聞こえない替わりに聴衆の息が漏れるのがわかる。

舞曲を感じさせ、タメが効いた演奏はプラジャーク・カルテットだ。思わず手を握ってリズムをとりたくなる。ただこのCDはD.94とのカップリングだが、曲順が逆に記載され、演奏時間も間違っている。

ヴェラー・カルテットも予想通り素晴らしい演奏だ。ファースト・ヴァイオリンが立ち、リズムも明確ではっきりと聴こえる。ヴェラーの音が素晴らしい。

新譜のベルチャ・カルテットを聴いた。2楽章が他の演奏とかなり違って聴こえた。それは強弱の幅が大きく、ピアニシモがささやきのように聴こえてくることからのようだ。平和な流れに聴こえていた音楽が、さなぎの中で震えているような、まどろみの中のような音楽になった。クレッシェンドで中間部の激情がクローズアップする。つまり主になるのは中間部で、その前後は前奏後奏にすぎなく、あたかも「冬の旅」11曲「春の夢」のような2楽章になった。前後のまどろみによって、現実の絶望が強調される。これは一つの新しい解釈だろう。強弱の幅が広いことから多少自然な流れに感じないところもあるが素晴らしい演奏であった。

そしてグリュミオーの演奏。この美しさには脱帽だ。素晴らしい音楽をありがとう。

参考資料

①石井誠士「シューベルト 痛みと愛」春秋社 1997

②FRANZ SCHUBERT Complete Chamber Music For Strings, Dover 0-486-21463-X 

③CD:カザルス、ヴェーグ rec.1961 PHILIPS UCCP-3447

④CD:Vienna Konzerthause Quartet + Gunther Weiss rec.? MCA MCD 80124

⑤CD:Prazak Quartet + Marc Coppey rec.2002-3 Praga Da Camera PRD 350042

⑥CD:Weller Quartet + Dietfried Guttler rec.1970 DECCA 475 6803

⑦CD:Belcea Quartet + Valentin Erben rec.2009 EMI 50999 9 67025 2 9

⑧CD:Grumiaux, Gerecz, Ledueur, Szabo, Mermoud rec.1979 PHILIPS 442 8289

 

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39 これやこの… シューベルト「冬の旅」① (2009/11/27)

1.「冬の旅」に光はあるのか

ハンス・ドゥハンの「冬の旅」に魅了されてからこの曲を聴き続けている。改めてこれまでの疑問点と考えてきたことを整理してみる。まずは、ディスカウ&バレンボイムCDの喜多尾道冬氏のノートが発端だった。

>「いわば心の絶対零度の地帯にも人間的な共感のよすがは見いだされる。その人間的なほのかなあたたか味といたわりが、わずかでも感じられるかぎり、この世は生きるに値する。『冬の旅』の絶望と虚無の果てにひびき出ているのは、人間性へのこのぎりぎりの信頼である」(ディスカウ&バレンボイムCDの喜多尾道冬氏のノートより)

◎この若者は冬の旅のあと、どのように生きていくのか。

◎「人間的なほのかなあたたか味といたわり」はこの若者の老人に対する眼からは感じられるが、若者以外から感じられるだろうか。

さらに2004年のクリスティーネ・シェーファーの「冬の旅」リサイタルのプログラムに載った喜多尾道冬氏の解説だ。

>シューベルトの《冬の旅》が今なお私たちをひきつけてやまないのは、彼と「冬の旅」をともに歩めば、暗い道の行く手に光を見出せる、そう確信させるヒューマンな励ましが、その中に秘められているからであろう。

◎「光を確信させるヒューマンな励まし」はいったいどこに描かれている、あるいは秘められているのか。

>24.辻音楽師 この極寒のさなか、孤独に曝されているのは若者だけではない。彼はこんなところにも自分の仲間がいるのに気づく。ここにも犬があらわれるが、彼ははじめて吼えつかれない。若者は落胆の老人を通して動物とのあいだに親しみを得たのであろうか。死の淵を覗き込んだ若者は、ここで生きる意味を見出したように見える。

◎若者は「生きる意味」を見出したのだろうか。

◎それはいったいどんな「生きる意味」なのか。

◎私にはどこにもそれらしいものをこの歌の中に見出せない。

当時私はこう書いた。

>それよりも若者は冬の旅を通して、世の中の見方が変わったのではないでしょうか。木や小川、カラス、木の葉などと対話することなど今までなかったはずです。辻音楽師に目を向けることもなかったはずです。「17.村で」で描かれる村人の世界(自分も今までその中にいた世界)から、もう一つ広い視野を手に入れたのではないかと思うのです。もうすでに若者は次元の違う世界に立っているといえるのではないか。

2.視点の変化

「冬の旅」の作曲の前後の弦楽四重奏曲、弦楽五重奏曲を聴いてきて、また少し視点が変わってきた。

初期のリート「ハガールの嘆き」以来「死」はシューベルトにとって関心事であったが、不治の病にかかって自らの死が現実味を帯びてきたことを実感し、自分という存在を改めて見つめたのだろう。その結果、「憂愁」「死」「存在」を見つめた弦楽四重奏曲が生まれた。親しい友人や兄弟家族の中にあっても自分だけが死ななければならないという孤独感、疎外感、絶望があったと思う。その想いとちょうど合致したのが「冬の旅」のテキストだ。「冬の旅」の詩に物語の展開発展はないように、重要なのは話の筋や展開ではなく、「死」をめぐる様々な想いだろう。

3.アドルノのシューベルト論

石井誠士氏はテオドール・アドルノのシューベルト論を次のように述べている。

「さすらい」がシュ-ベルトの作品の一つのモチーフであり、中心的な構造契機をなしている。シューベルトの音楽は「風景」の性格をもったもので、その「風景」は「情調」とか「気分」であり、主観の体験や感情に先立ってある実存の根本構造である。そして、その「風景」は「死の風景」である。精神分析も、旅とさすらいを、古代から伝わる客観的な死の象徴表現と見ている。

アドルノは、「死の巡回」としてのシューベルトの「さすらい」の現象の本質を次のように言い表している。「どの点を取っても中心点に対して同じ近さにあるというこの風景の特異な構造が、その風景の中を前進しないで経巡るさすらい人に明らかになる。つまり、あらゆる発展は、この風景の完全な否認であって、第一歩は、最後の一歩と等しく死に近くあり、巡回しながら風景の散らばった点が探されるが、決して風景そのものから離れることはないのである」と。…「主題は、物語を語らない、遠近法的な巡回をするだけである。だから、主題におけるあらゆる変化は、光の変化である。」…

アドルノは、シューベルトの主題や楽曲の配置の仕方と、ポプリという、十九世紀にはやった、楽曲を絵はがきアルバムのように並べて演奏して楽しむ演奏形式との類似を指摘している。時間がいわば空間化されるのである。それゆえ、「さすらい」、「巡回する遍歴」がシューベルトの音楽の形式をなす。

「シューベルトの形式は、一度現れたものを呼び戻す形式であって、発明したものに変化を加える形式ではない」のである。(石井誠士「シューベルト 痛みと愛」p.276-7)

    

  ↑→〇 〇

  〇     〇

  〇  死  〇

  〇     〇

   〇 〇 〇

 

「冬の旅」は最初と最後の曲を除けばどの順序に置いても内容はほとんど変わらないし、筋も発展しない。どの曲も中心点の「死」に対して同じ近さにあり、第一歩は、最後の一歩と等しく死の近くにある。

4.立花隆氏の「思索ドキュメント」

NHKのTV番組「立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」(11月23日放送)を観た。「がん遺伝子」は、生命の誕生から成長に至るまで不可欠な遺伝子でもあるという。がんはしぶとく、生命そのものがはらんでいる運命であるとも言う。

(石井誠士氏の言葉「生は死を含んでいる」を思い出す)

立花氏自身がんと戦っているが、抗がん剤は使わないつもりだと話している。自分の生きている間にガンは克服できないだろう。自分は死ぬとわかってもそうじたばたしなくても済むのではないか。どこかでがんと残り時間との折り合いをつけなくてはならないが、いたずらに頑張ってQOL(生活の質)を下げることではない。人間はみんな死ぬ力を持っている。じたばたしなくても死ぬまでちゃんと生きることができ、それががんを克服するということであろう。番組の最後にこう語った。

緩和医療を続ける徳山進医師の話も素晴らしかった。あなたはどこで死にますかと尋ねる。死は日常のそばにある。死に向かっていくと精神が変化して、自分が終わるかもしれないと体が教えてくれる。みな立派だった。いのちは死というものをはらんでいるがすごいものだなあと思う。患者さんも尊いし、死も尊い。いのちはすごい。徳山医師は人間は死の直前まで笑うことができると言う。それが人間が望みうる最良の死でしょう、自然な死ですと立花氏は語る。

私の兄も母もがんで亡くした。母の余命が6ヶ月もないだろうと医師から告げられたときはショックであった。はたして自分は母の死まで看取ることができるだろうかと不安だった。しかし、一つ一つやるべきことをやっていけば、介護や最期まで看取るという大きなこともできるものなのだと体験し母に感謝した。兄は抗がん剤で苦しんだが、母は使用できず、そのために自然に死ねたと思う。最期まで(生きることを諦めずに)生きてくれたことにも感謝した。だから「みんな死ぬ力を持っている」という言葉に深くうなずいた。死や形見分けの話題を避けていたが、健康なときにもっと母から聞いておけばよかったと思う。病気のことも話題にしなかったが、母の手を握って夜を明かしたあの夜や、栄養剤の点滴装置を見て「延命処置はしないように言ってあったでしょう」と迫った時を思い出すと、がんで余命が少ないことを自分でもわかっていたと思う。口数も少なくなり家族と一緒に暮らしていてもその孤独感、絶望はいかばかりであったかと思う。

シューベルトの心境と重ね合わせる。

参考資料

①石井誠士「シューベルト 痛みと愛」春秋社 1997

②テオドール・アドルノ「楽興の時」三光長治・川村二郎訳 白水社 1994

③河合隼雄「物語を生きる」小学館 2002

④CD:Daniel Lichti(bass-baritone) Leslie De'Ath(fortepiano) rec.2008 ANALEKTA AN 2 9921

⑤CD:Robert Holl(bass-baritone) Naum Grubert(piano) rec.1995 CHALLENGE CLASSICS 72010

 

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40 これやこの… シューベルト「冬の旅」② (2009/11/28)

5.辻音楽師との出会い

第24曲「辻音楽師」で若者はこのように問いかける。

「風変わりな老人よ、あなたと一緒に行こうか。私の歌にライアーの伴奏を付けてくれるかい?」

この言葉は老人に向かってかけられた言葉ではなく若者の心の中の言葉であると思う。疑問形であるのは心を閉ざして生きるしかないのかという戸惑いからだろう。いったいどうしたらよいのか。ヴィルムヘルム・ミュラーのテキストはここで終わる。絶妙なラストシーンだと思う。

「若者の問い」で時間は永遠に静止し、私たちに突きつけられる。シューベルトは、「冬の旅」の終わりのこの箇所を、むしろ、実存の根源的状況として捉えた。初期の『ハガールの嘆き』や『糸を紡ぐグレートヒェン』や『魔王』と態度は基本的には変わらない。ジェラルド・ムーアはこの老音楽師への問いかけの箇所について、「あれほど長い間打ちひしがれた男の心を縛っていた冷たい束縛が押し寄せる暖かさの中で氷解する。この旅人は老音楽師をもはや超然と見ているのではない。旅人の心には、人生の波風に耐え続け、絶妙な無関心によってこの波風を重大とは考えない老音楽師に対する愛情、親近感が沸き上がってくる」と語っている。(石井誠士「シューベルト 痛みと愛」p.281)

この老音楽師は若者自身のドッペルゲンガーなのではないか、または死神ではないのかとも考えたが、ムーアの言うとおり「人生の波風に耐え続け、絶妙な無関心によってこの波風を重大とは考えない」という態度で生きる同胞と見るのが一番いいと思う。

すべての余計なものが取り払われて、存在、実存の根源的状況がここであらわになる。私たちは「死」の近くにあり、それを前にしたとき全くの孤独であり、しかも逃れることができない状況にいるのだ。確かに、シューベルトも、死を人と人との根源的な次元での出会いを可能にするものと見ていた。『冬の旅』のこの箇所に来て、私たちは、人間の有限性と共にその尊厳を思い、非常に厳粛な気持ちになる。ミュラーの詩の問いかけに答えたシューベルトの音楽は、深い落ち着きと充実とを示している。これは、モーツァルトの交響曲第四一番ハ長調や『魔笛』のあの肯定性とは対照的なペシミズムのようであるけれども、やはり、「さすらい」を通して「変化した人間の解放された音楽」、あるいは「人間の質的変化の便り」と見るべきである。(石井誠士「シューベルト 痛みと愛」p.284)

「さすらい」を通して「変化した人間の解放された音楽」とはよく解らないが、「人間の質的変化の便り」とは「さすらい」を通しての若者の世界観の変化を表しているのではないか。前記の感想「広い視野を手に入れた」と同じことを表しているのではないかと思う。

「冬の旅」の後に書かれた音楽が絶望や疎外感にとらわれたものでないことからしても、シューベルトの中に「大いなるハーモニー」とか宗教的信念あるいは人間への信頼があったのだと思う。若者の問いに対して、シューベルトは弦楽五重奏曲で見事に答えていると思う。第四楽章で、短調のメロディは様々に転調され長調に終結し、大自然を歩いているようなメロディは人生の波風を逃げずに真正面から捉えて愉しんさえでいるように思える。人間は死につつ生きているという事実を常に自覚し作曲という創造に没頭して、弦楽五重奏曲を初め3つのピアノ・ソナタ、ミサ曲第6番、白鳥の歌など大傑作を次々と生んでいった。

「創造的であることは人間の本質である」と石井誠士氏は言う。河合隼雄氏は「生きるとは、自分の物語をつくること」と言っている。生きること自体が自分の物語の創造であると捉えると、視点が変化して新鮮な気分になる。常に創造的でありたいと思う。

6.自ら葡萄酒になれ

「冬の旅」の中で暗い行く手に光は見出せない。光があるとすれば、それは主人公の若者の心である。リルケは「飲むことが君に苦くなれば、自ら葡萄酒となれ」と言った。運命を何とかして逃れようとするのではなく運命を前向きに生ききることこそ運命を乗り越える秘訣であろう。若者の問いで時間は永遠に静止する。その後の物語は私たちに引き継がれるのだ。

CDを聴く。Daniel Lichtiはカナダの人らしい。細かいヴィブラートが少し気になるが感傷的にならずまっすぐでいい。最後の部分はさらりと終わった。

ロベルト・ホルは落ち着いて深く、最後の部分はクレッシェンド気味で深い余韻を残した。

7.これやこの…

老辻音楽師との出会いは蝉丸の歌を思い出させた。

  これやこの ゆくもかへるも わかれては 

          しるもしらぬも あふさかのせき

逢坂山の峠は大きなカーブを描いているそうで、左右はもちろん前後さえ切り通しの崖に囲まれて見通しがきかないそうだ。東国へ赴く人、都へ帰って来る人、それぞれがほんの一瞬すれ違い見えなくなる。別れては逢い、知っている人も知らない人も出逢うという逢坂の関。出逢った後は二度と再びめぐりあうことはない。

「ゆく」「かへる」、「しる」「しらぬ」、「わかれる」「あふ」から、「死」「生」、「現在」「過去」、「出会い」「別れ」へとふくらんでゆく。すべてはただ今一回きりのこと、「一期一会」「諸行無常」「会者定離」である。逢坂の関は、また、今ここのことであり、若者と辻音楽師が出逢ったところであろう。この出会いをありがたく思う。

参考資料

①石井誠士「シューベルト 痛みと愛」春秋社 1997

②テオドール・アドルノ「楽興の時」三光長治・川村二郎訳 白水社 1994

③河合隼雄「物語を生きる」小学館 2002

④CD:Daniel Lichti(bass-baritone) Leslie De'Ath(fortepiano) rec.2008 ANALEKTA AN 2 9921

⑤CD:Robert Holl(bass-baritone) Naum Grubert(piano) rec.1995 CHALLENGE CLASSICS 72010