シューベルトの「冬の旅」についての記録6。プレガルディエン&ゲースの決定的な「冬の旅」に出会い、ようやく「冬の旅」の袋小路から抜け出すことができた。
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41 顔 レオン・フライシャー D.960 (2010/1/23)
この悲哀感はモーツァルトだけのものでも、
我々演奏家だけのものでもない。
全人類が共有するものだ
新聞に載ったフライシャーのこの言葉が心に残った。どうしてなのだろうと思った。「モーツァルト」のところを「シューベルト」と替えてみる。シューベルトの「冬の旅」「弦楽四重奏曲」「弦楽五重奏曲」「ピアノソナタ」などに聴くことのできる、やりどころのない哀しみは、演奏家や個人のものだけでなく全人類が共有しているのだ。そう考えると少しほっとする。だからこの言葉が心に残ったのだろうか。
昨年(2009年12月4日)にNHK芸術劇場でレオン・フライシャーの演奏が放送された。フライシャーは指揮者ジョージ・セルとのベートーヴェンやグリーグの協奏曲の録音があったのでその名前は知っていた。今回TVで放映され、困難な人生と深い音楽に揺り動かされた。
決してあきらめてはいけません。
どんな困難にも希望を捨ててはいけません。
柔軟な姿勢で、新しい可能性に目を向けるべきです。
そうすれば素晴らしい人生を歩むことができるはずです。
私がそうでしたから。
レオン・フライシャー(1928~)は、1964年36歳のとき、家具を持ち運ぶ際に右手親指の辺りを負傷し3~4針縫う事件を起こしてしまった。その後、事件前の感覚を取り戻そうと必死に練習しすぎた結果、右手が意思と反する動きをするようになってしまった。その回復は難しかった。2年間絶望感に陥り自殺を考えた。30年後、それは脳の機能障害であるジストニアという病気であることがわかる。そしてボツリヌス毒素を使う治療によって奇跡的に右手の機能が回復し、35年後、両手の演奏活動を再開する。
右手が使えなかった35年間、実は毎日ピアノに向かっていました。
いろいろな弾き方を試してみました。
無駄だと思いながらも希望を持ち続けたのです。
ある日突然発病したように、ある日突然治ってくれるのではないかとね。
ですから初めて満足のいく演奏ができたときは最高の気分でした。
ただ最後までどうなるかわかりませんでした。
今も何が起こるかわかりません。
ステージは一種の冒険なのです。
シューベルトのピアノソナタ21番D.960に最もふさわしい演奏家ではないかと思った。そしてその通りの演奏であった。
2009年12月4日(金)放送
曲目
・羊は安らかに草をはみ(バッハ/エゴン・ペトリ編)
・旅立つ最愛の兄に思いを寄せる奇想曲 BWV992(バッハ)
・半音階的幻想曲とフーガ BWV903(バッハ)
・シャコンヌ(バッハ/ブラームス編)
・ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960(シューベルト)
(2009年10月19日 武蔵野市民文化会館 小ホール)
バッハのかわいらしい、親しみ易い曲から次第に心の深みへと導いていく。左手のみのシャコンヌでその頂点に到る。そして、シューベルトだ。音を弾き、音を味わい、音とともに歩む。そこには意図や我執は微塵も聴こえず、ただ音との対話があった。80歳をこえるその顔を美しいと思った。そのはるかな人生を想った。
D.960のCDによる演奏時間の比較
①13:33 ②9:53 ③3:42 ④6:34 フライシャー1956年
①20:47 ②11:05 ③4:01 ④7:36 フライシャー2004年
①14:51 ②9:19 ③3:51 ④8:27 ブレンデル1988年
①22:00 ②10:40 ③3:57 ④8:02 内田1998年
①15:29 ②10:35 ③4:33 ④9:50 シュヒター1988年?
フライシャーは2楽章を掘り下げ4楽章をさらりと仕上げる。
ジョージ・セルに気に入られたピアニストに違いない。
参考資料
①1月9日の朝日新聞夕刊P7、上坂樹氏「難病克服 指導に輝き 米ピアニスト フライシャー来日」
②CD:Leon Fleisher Schubert Piano Sonata D.960 rec.1956 united archives UAR021
③CD:Leon Fleisher Two Hands rec.2004 VANGURD CLASSICS 1551
④CD:Leon Fleisher the journey VANGURD CLASSICS ATM CD 1796
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42 これでいいのだ! D.956 (2010/8/17)
弦楽五重奏曲をYouTubeで観る。このような素晴らしい演奏が聴けるのは本当に嬉しいことだ。この手に汗握る終楽章のコーダ、肯定の力強さはなんと胸のすくものだろう!
大好きな「冬の旅」は、主人公は果たしてこの旅の後どのような人生をたどるのか、いったい「冬の旅」に希望の光は差し込んでいるのか、シューベルトはこの憂いの沼から抜け出す事ができたのだろうか、といった疑問はいつの間にか私の中で解決してしまった。それは長年側でお世話することのできた母の死が大きく関わっているのだろうと思う。そのことがどのように私の心に変化をもたらしたかはよく分からない。また言葉として明確に述べられるようなものでもないのだろう。そして、弦楽四重奏曲と弦楽五重奏曲を集中して聴いて、特に弦楽五重奏曲によって、シューベルトが大いなるものへの確信とでもいうものを持っていたと実感できた。
「冬の旅」に希望の光はない。この旅は発展しない。第1曲「おやすみ」で始まり、第24曲「辻音楽師」で終わるのだけれど、その間に物語が発展したり、気持ちが変化することはない。全曲は絶望に直面した人間の様々な心の在りようを表しているのだろう。この物語はここで完結し、その後に物語はないのだ。「冬の旅」全体はきっとシューベルトの音楽の第2楽章にあたるのだと思う。このメメントモリを示す恐ろしい絶望の淵を歩かなければ、真実の道には辿り着かない。長い間、生と死について深く考察してきたシューベルトの音楽は真理を内在している。そして弦楽五重奏曲に至って「冬の旅」で陥ってしまった袋小路を見事に、そして何ともたやすく抜け出してしまっているのだ。
「臨床家 河合隼雄」という本に次の言葉を見つけた。シュピーゲルマン氏へのインタビュー記事である。
…やはり自分の魂を求めている。自分のもともとのものにつながっていたいという、とても現代的な問題があるのではないかと思います。…個性化の過程は、ある意味で疎外されていくことです。自分の生きている場所、自分の社会や周りの人からある種の疎外を感じる。疎外を感じたらどうするかというと、より深く進んで行くしかない。より深く進んだところでつながりを見つける。周りの人だけでなく、自然や石にまでつながりを見つけていくということではないでしょうか。(P.245「臨床家 河合隼雄 」岩波書店2009年)
自己の内在する可能性をリアライズ(実現)し、自我が高次の全体性へと志向する努力の過程、魂の成長過程を心理学では個性化の過程または自己実現の過程という。「冬の旅」を「個性化の過程」「自己実現の過程」「影との戦い」ととらえてみるとまた別の趣を呈する。主人公は様々な想いを味わい、死を覚悟した後にものの見方が変わる。
そこからさらに転じて高次の全体性を獲得しているのが弦楽五重奏曲だ。長調と短調、光と影、希望と絶望、激しさと穏やかさ、愉しさと哀しさ、重々しさと軽妙さ、力強さと優しさ、情熱と諦めなどなど、相対立するものが不思議なことにお互いに支え合い、調和し、そして高次の肯定性が全体をまとめあげている。聴けば聴くほどますます引き込まれてしまう。いわば悟りの境地に達したような「かるみ」がある。なんとも凄い音楽だ。全くこんな音楽は他に聴いたことがない。
YouTubeの演奏は次の通り。
live at the Zagreb International Chamber Music Festival 2008
Susanna Yoko Henkel - violin
Stefan Milenkovich - violin
Guy Ben-Ziony - viola
Giovanni Sollima - cello
Monika Leskovar - cello
1楽章と2楽章が全曲入りきれなかったことがとても残念だ。ファーストヴァイオリンのスザンナ・ヨウコ・ヘンケルのつややかな音、チェロがリードする心躍るリズム、全員が弓を弾ききる時の爽快感、一人一人が楽しんで演奏していることが映像から感じられる。もう何度も聴いてしまった。とても素晴らしい!そして、これでいいのだ!、ですよね。
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43 マリア・ユージナ D960 (2011/8/18 )
8月1日にTV放送されたNHKのディープピープル「スーパー指揮者」を観た。小林研一郎と広上淳一、下野竜也の三人の指揮者だった。それぞれ興味深い話だったが、第9の指揮の比較が最もおもしろかった。楽譜に忠実にこだわる下野氏に対して、小林氏は間を置いてフレーズをはっきりさせる。3人の演奏の中で最も印象に残ったのは、年の功だろうか、やはり小林氏の演奏だった。文章を音読するとき、すらすら滑らかに読むのと、間を置いて意味や解釈がよく分かるように読むのとの違いに似ている。ただその解釈、意味、間というのは多くの時間と経験によって自然に形成されてきたものだろう。
NHKクラシック倶楽部でのメナヘム・プレスラー・ピアノリサイタル、シューベルト・ピアノソナタD960も良かった。生きてきた多くの年月、ボザール・トリオでの多くの経験、様々な想いが感じられた。
演奏するのは怖い曲ですが、演奏しなければならない時が来るのです、とプレスラーは語る。「シューベルトの死の直前に完成したこの曲にある美しい感情を表現したくなるのです。練習すればするほど好きになる曲で教えたり聴くことはあっても長い間演奏はしませんでした。今では最も愛する曲です。シューベルトが作品に込めた感情‐悲しみと苦しみに始まり、歓びに至る瞬間までの感情の全てを表現できると思うからです。シューベルトがとても愛した舞曲で終わります。彼は踊りながら天国へ旅立ったのでしょう。」
YouTubeに2008年のプレスラーの演奏があったが、今回の演奏と比べるとあまり良くなかった。そこでD960の他の演奏を聴いていたら、マリア・ユージナの演奏が耳に止まった。とても個性的だ。こんなにゆっくり始まるのは聴いたことがない。物思いに深く沈みこむ2楽章。生き生きとして様々な変化に富む3楽章。決然としていて、哀しみを帯びながらも、軽快で歓びに溢れた4楽章。息をもつかせぬコーダの爽快感に鳥肌が立った。
3・4楽章が今までどうも腑に落ちなかったが、プレスラーの言葉とこの演奏で納得がいったように思う。演奏家によってどれほど解釈、表現が違うことか。
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44 シュトロス四重奏団 弦楽五重奏曲 D956 (2011/10/3)
シュトロス四重奏団の弦楽五重奏を聴いた。音がリアルに迫って聴こえる。やはりLPはいい。録音の音量レベルが高いようだ。演奏時間はおおよそ次のようになっている。
15:11 / 13:53 / 8:22 / 8:43
3楽章のトリオの前の後半の繰り返しは省略されていた。4楽章のフレーズの捉え方が他の演奏と少し違っていたのが印象に残った。細かい動きのところで一つ一つの音をしっかり区切るのではなくて、大きく一つのフレーズと捉えてスラーを区切るような連なった音で弾いている。リズムの強拍を特に長くためたり強く強調することはなく、音楽全体の流れを止めることはしない。
LPで聴く弦楽五重奏曲を格別だ!これで録音されたこの曲のほとんどを聴いたことになる。調子に乗って他の演奏を聴くことにした。
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45 エンドレス四重奏団 弦楽五重奏曲 D.956 (2011/10/4)
エンドレス四重奏団もシュトロス四重奏団もこの弦楽五重奏曲はCDになっていないと思う。ぜひCDにしてほしいものだ。エンドレス四重奏団はシューベルトの弦楽四重奏曲全集を3つのLPボックスで残している。全集を出すということはシューベルトに傾倒しているということでもあるだろう。その通りの内容の濃い深い演奏だった。演奏時間はおおよそ次のようになっている。
15:00 / 14:35 / 11:30 / 10;03(エンドレス四重奏団)
15:11 / 13:53 / 8:22 / 8:43(シュトロス四重奏団)
このLPは録音の音量レベルが小さい。モノラルながらこれも素晴らしくいい音がする。艶やかなファースト・ヴァイオリンの高音がたまらない。音楽の起伏とともにピアノからフォルテまで大きくうねるようだ。緩急自在でそれぞれの楽器が主となり客となって受け継いで行く。
2楽章のピチカートが生々しく聴こえる。3楽章はアクセントが効いてリズムの際立つ爽快な演奏だ。トリオの前の後半部分の唐突な繰り返しは楽譜通り繰り返している、そこがまたいい!中間部は深い。たっぷり歌う。4楽章はややゆっくりでアクセントが効いている。シュトロス四重奏団の演奏とは違って、細かく動くところはしっかり一音一音発音する。陽気な部分はやっぱりシューベルトがガスタインの山を気持ちよく歩いているような感じがする。そして手に汗握る見事なコーダ。胸のすくヴァイオリンの高音の弾き切りがたまらない。こんなすごい演奏があるから収集をやめられないんだ!
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46 チリンギリアン四重奏団 弦楽五重奏曲 D.956 (2011/10/5)
チリンギリアン四重奏団のLPを聴いた。CDの録音データによると各楽章の演奏時間は次の通り。
15:09 / 14:32 / 11:08 / 9:59(チリンギリアン四重奏団)
15:00 / 14:35 / 11:30 / 10;03(エンドレス四重奏団)
15:11 / 13:53 / 8:22 / 8:43(シュトロス四重奏団)
チリンギリアン四重奏団とエンドレス四重奏団の演奏時間は大変似通っている。CDでは聴いていたがLPだと何か落ち着く。やはり素晴らしい演奏。ニンバスの弦楽四重奏曲のLPはあまり音が良くなかった記憶があるがこれは良いようだ。
昨日は一日中弦楽五重奏曲の2楽章が頭の中で鳴っていて天国気分だった。今日は3楽章だ。頭の中で3楽章が鳴っていると、この雨の中もズンズン歩ける。雨でも爽快な気分だから不思議だ。
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47 ライアーの響きは?「冬の旅」(2011/11/7)
「冬の旅」をライアー(ハーディ・ガーディ)で演奏するCDを聴いた。「冬の旅」で絶望を旅した男は最後に一人の年取ったライアー弾きに出会う。ライアー弾きの絵を見る。人を死に招く死神かとも思わせるような不気味さがある。このようなライアーの演奏を聴いてしまったら何か不気味なことが起こるのではないか。死に囚われてしまうのではないか。そんな恐れを持って恐る恐るCDをかけてみた。
第一印象はまるで足踏みオルガンだ。アコーディオンのようにも聞こえる。だいたい八分音符のしんしんと降る雪の音が聞こえないではないか。もっと暗い不気味な音色を想像していたのに…肩透かしを食らった。また、ソプラノがクラシックの歌い方でなくフレーズが短い。連作全体で捉えるというより一曲一曲の寄せ集めのように感じた。3曲目などはポピュラーの曲かと思われるような出だしだ。歌い方というか、歌い手の各曲に対するイメージが全部同じようで面白くなかった。どれも囁くように歌うのだ。昔聴いたある日本人の録音は、すべての曲が同じように泣き言に聞こえて最後まで続けて聴けなかったことを思い出した。24曲「辻音楽師」の出だしは死者の国から響いてくるような暗さを大いに期待したのだが、これもオルガンかバグパイプのように聞こえて残念だった。
それにしてもピアノで表現されたあの前打音を伴う音型はどの響きを模しているのだろう。それもよくわからなかった。期待が大きかっただけに私には失望が大きい結果となった。
プレガルディエンの器楽の伴奏を伴ったCDはアコーディオンも入って音色も似ている。こちらの方がずっと心に迫る歌であり、伴奏であると思った。
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48 耳障りなライアーなのか…パドモア「冬の旅」演奏会 (2011/12/6)
「冬の旅」の好きな方は、マーク・パドモアとポール・ルイスのCDをもうお聴きになっているだろう。最後の「辻音楽師」のピアノの不協和音をどう思われるだろうか。私には大変耳障りで、もう聴きたくない音だった。こういう演奏は果たしてテノールのパドモアの意思なのか、それともピアノのルイスの意思なのか、確かめたかった。トルコ行進曲でパーカッション的な音を入れた演奏と同じように、不協和音の鳴り響くライアーマンは実験としては面白いけれども、繰り返し聴くには耐えられない演奏だった。「冬の旅」を何度も歌うであろう歌手にとってもこの不協和音の繰り返しはたまらないのではないのか。きっとこれはポール・ルイスの案であろう、きっとこの案は却下されるだろうと踏んだ。
2011年12月4日(日)トッパンホールで行われた、マーク・パドモアとティル・フェルナーの「冬の旅」のコンサートに出かけた。トッパンホールは飯田橋の駅からもう少し近ければいいのだが。帰りは日曜日のせいか道の途中にほとんど何もなくて暗く寂しい。やはり生で聴く「冬の旅」は歌い手の想いが全身から伝わってくるのでいい。「冬の旅」は何度も聴いているので歌詞を見なくなった。というか歌詞の詳細はもう忘れているのだけれどそれにこだわらなくなった。パンフレットを見ずに聴いていると、「冬の旅」の全体像を印象的な曲を核として私はこう捉えているのがわかった。
1「おやすみ」
↓ (驚きや怒り)
5「菩提樹」
↓ (内省)
11「春の夢」
12「孤独」
13「郵便馬車」
↓ (疲れ果てた意識と風景)
21「宿屋」
22「勇気」
23「幻の太陽
24「辻音楽師
「冬の旅」をどの辺りのどんな題名の歌を歌っているのか思い出そうとしながら聴いていると、一つ一つの歌が大変充実していて必ずそこにあるべき歌なのだなとつくづく感じる。パドモアが気づかせてくれたのは、第2曲「風見鶏」第8曲「振り返り」第18曲「嵐の朝」第22曲「勇気」などの比較的力強い曲の素晴らしさだ。その歌う体全体からエネルギーが伝わってくる。イギリスのテノールは高い音を頭の方に響かせて音が前面から出てくるように感じる。少し残念なのは低い音がよく響かなかったことだ。
特に素晴らしかったのはピアノのティル・フェルナーだ。「菩提樹」の冒頭、木の葉の囁きを本当に聴いたのだ。ここをうまく表現するピアニストをあまり聴いたことがない。「春の夢」の優しいこと!夢から覚めてまた夢を想い返すところの優しい歌といったら!
「冬の旅」で私がいつも注意して聴くのは「宿屋」だ。この曲の終わり方である。主人公が死を諦めて杖を頼りに再び歩き出すところである。力強く終われば、それは再生や希望につながり、弱く終われば、それはいくら頑張っても仕方ないのにという同情や憐れみになってしまう。ここでしかほのかな希望の光を表現できないように思うのだ。最近聴いたクリストファー・モルトマン&グレアム・ジョンソンのCD「冬の旅」はピアノがフェイドアウトしていく、なんとも虚しく救いようのない「宿屋」だった。大御所グレアム・ジョンソンがこのような解釈をするのかとがっかりした。
さてパドモアとフェルナーはどうかというと、歌は力強く終わり、ピアノはエネルギーを保ったままわずかにディクレッシェンドする。ほのかな灯りがともったのだった。非常に嬉しかった。
さて、問題の終曲「辻音楽師」が始まる。予想通り!あの不快な不協和音は聴かれなかった。ライアーを弾く辻音楽師に自分を見る。ああ、私もこの人の様に生きるのか。歌の最後、わずかなクレッシェンドで感情を表現する。
大丈夫!生や死、あるいは幸不幸は天に任せて、目の前のやるべきことをやればいいのだ。最後のピアノソナタや最後の弦楽四重奏曲、弦楽五重奏曲はそう語っている。シューベルトの音楽は実に深い。
アンコールは「夜と夢」D.827だった。「また来ておくれ、やさしい夢よ」よそ者にも夢の中にはまだ安らぎがある。なかなかの選曲ではないか。フェルナーというピアニストを知ることができて嬉しい演奏会であった。
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49 ベッシュ&マルティノー 「冬の旅」(2012/1/31)
ベッシュ&マルティノー の「冬の旅」には心を揺さぶられた。いろいろな演奏を聴いているのに、どうしてまたこのように深く感動させるのか不思議にも思った。改めて演奏する、表現するとは何だろうと考えた。
「冬の旅」の録音は本当にたくさんあるし、不思議なことに毎年新しい録音が増えていく。私もどのような演奏なのかと次々と購入してしまう。不思議というのは、このような暗い内容の音楽がどうして音楽産業のレールに乗り、次々と録音されリリースできるのかという事である。いや、実際は採算など取れないのかもしれない。もしかすると数は多くないが、根強い「冬の旅」ファンがいて、ある程度さばけるのだろうか。
私の周りにはクラシックファンでも声楽ファンはあまりいないし、「冬の旅」の話ができても、せいぜいディスカウやプライの話、古い人だとヒュッシュやホッターの話から進まない。
それなのに「冬の旅」の新しい録音が次々リリースされているのは、考えてみればありがたいことなのかもしれない。
私は「冬の旅」は歌が上手いか下手かという事より、この歌で何を訴えかけているのか、歌手自身どんな人物で、生きていくということをどう捉えているのかを耳を澄まして聴いている。ピアニストにしてもそうだ。曲順を変えようが、不協和音を延ばそうが、小手先の変化で注意を引こうとしても、それはすぐに耳についてしまって結局は不快になってしまう。テナーであったり、バリトンであったり、女性であったりというのも関係ない。
ベッシュとマルティノー は「冬の旅」を真正面から取り組んでいる。変化球は全くない。それなのに深く心を動かされる。第1曲「おやすみ」の歌が始まるとすぐに深い!と感じる。第2曲から続く「冬の旅」前半に漂う怒り、憤りがストレートに伝わってくる。マルティノーのピアノが冴えるのは「菩提樹」だ。収縮と弛緩が見事!、一陣の風が吹き抜けるようだ。第6曲最後のわずかに長く延ばす慟哭は心に突き刺さる。「春の夢」では夢から覚めてからの回想のなんと優しいことだろう!最後のピアノの分散和音はキッパリ無慈悲に鳴らされる。後半の内省、特に16曲目最後の訴えは心をえぐる。18曲目「嵐の朝」は激しい。
最近は第21曲から24曲までの4曲の繰り返しが、よそ者意識を持つ者の現世での生き様でないかと思うようになった。
第21曲「宿」が特に素晴らしい!!!死からの、確かで力強い復活の声が聴こえてくるのだ。22曲「勇気」カラ元気でもいいではないかと思えてくる。23曲「幻の太陽」ふさぐ事もやけになる事もある。24曲「辻音楽師」、救いはないのか。永遠の問いで終わろうとする。マルティノーの最後の音はその象徴であろうか。まるで永遠に続くかのような、長い、長い間をもってやっと最後の音が打たれるのだ。深い感動に包まれる。
第21曲から第24曲までの無限ループがよそ者の生き様だろう。村上春樹「1Q84」の世界や、その中に出てくる「猫の街」の世界に閉じ込められてしまうのだ。青豆と天吾のようにこの世界から脱出しようとするなら、出口は第21曲「宿」を探すしかない。立ち上がって歩き出す、その杖に出口のヒントが隠されているように思う。
深い感動をもたらすものは、ベッシュとマルティノーのこの曲への深い共感と人生観の深さであり、確かな表現力があるからなのだろう。
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50 プレガルディエン冬の旅「宿」(2013/10/18)
このところ時間がなくてゆっくりと音楽を聴けない。ブルックナーの8番は1楽章ごとにトータル4日かかって聴いた。ケント・ナガノ&バイエルンのだった。第1稿のもので、いやはや長い長い。3楽章だけで33分。まいった。
冬の旅もCDはたまっているがポツリポツリ聴くのでまとまらないし、聴いた気がしない。そんな中、プレガルディエン&ゲースの冬の旅のDVDがCDより先に手に入ったのでちょっと聴いてみようとかけてみた。その迫力に引き込まれてちょっとどころでなく、とうとう最後まで聴いてしまった。
驚いたのは第21番「宿」である。プレガルディエンってこの曲をこんな風に歌っていただろうか。これは凄い。これは感想を書かなければと思った次第である。
冬の旅は明るい希望に満ちた楽しい曲ではない。しかし聴き込んでいくと底なしにたまらない魅力に溢れた曲ばかりなのだ。いつの間にか歌詞など考えないで聴き込んでいて、歌い手の情感やエネルギーをじかに受け取っているのだ。
冬の旅はまた人生について考えさせられる。悲しみを知らない喜びは深くない。どん底の旅を通して冬の旅の主人公は世界の見方が重層的な見方に変わっていく。深くなっているのだ。
特に最後の4曲はこの曲集の終結部だと思っている。主人公はこのまま辻音楽師とともに旅を続けるとは思わない。終曲「辻音楽師」のみが終結部ではないのだ。4つの曲を繰り返し揺らぎながらも、生きて、自分の物語を創っていくはずだ。
前にも書いたとおり、「宿」は「死と再生の音楽」としてとらえたいと思っている。主人公は死を決意し墓場(宿)を訪れるが、そこには空き家はなく拒否されてしまう。そこで、忠実な杖を支えに旅を続ける決心をするのだ。この曲を虚ろに演奏してしまうと、全曲がもう救いようがない音楽になってしまう。ある悲しい男の物語だと劇を客観的に見ているようならそれでもよいだろうが、音楽に希望のメッセージをこめるとするとこの曲にしかその場所はない。
プレガルディエンは1998年のシュタイアー盤、2006年のギターHoppstock盤、2007年のミュラーの原作順の器楽盤と3つの録音がある。どれもこの「宿」は虚ろに終わっているのだ。
ところが今回のゲース盤では強く、力強く終わる。ゲースのピアノはこれまた最後の和音まで力強い。これも素晴らしいと思ったクート&ドレイク盤では、クートが力強く終わり、ピアノも力強いのだが、最後の和音はふっと力が抜ける。ゲースは確実に最後の和音まで緩めない。なんと感動的で信念のこもったものだろう。
この変更はゲースの意向なのだろうか。それともプレガルディエン自身の変化なのであろうか。これから届くであろうCDにそのことが書かれていると嬉しいが、果たして…プレガルディエンの歌は真摯で、映像に釘付けになった。
メッセージのこもったこんな歌が、ピアノが、ああ!聴きたかったのだ!
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51 一切皆苦を生きる~プレガルディエン東京音楽祭「冬の旅」(2016/4/14)
2016年4月2日(土)東京文化会館小ホールでのプレガルディエン「冬の旅」の演奏会に行くことができた。はたして第21曲「宿」はフォルテで終わるだろうか。枯れ果てたと思われた自己の内側から湧き上がるエネルギー、それが感じられる「宿」の解釈を、ピアニストのゲースなしにプレガルディエン自身が選択しているのだろうか。期待と不安が入り混じっていた。
なぜ「宿」にこだわるのか。歌曲集「冬の旅」に希望の光があると言う。しかし、それはなかなか見出せない。唯一第21曲「宿」は、力強く終わることで宿、即ち墓場=死からの再生が象徴され、再び生に向かう生命力が感じられるようになる。死を望んだ旅人は信頼できる杖を支えに力強く歩き始める。暗黒の絶望の底から再び前進するエネルギーが湧き上がるのだ。それは腹の底から感じることのできる大きな感動である。それを初めて感じたのはシュトゥッツマン&ゼデルグレンの演奏からだった。
器楽版の「冬の旅」この夜の演奏は器楽版で、更に作詞者ミュラーの並べた順で曲が演奏された。舞台に向かって左からフルート、クラリネット、歌手、アコーディオン、ファゴット、ホルン、オーボエダモーレの順に配置された。編曲者の意向だろうが曲順を替えるのは好きではない。作曲家の和声的な意図が乱れると思うし、慣れた曲順の方が良いからだ。しかし内容的には進展は殆どないので最初と最後を除けば曲順が替わっても差し支えない。プレガルディエンはこの版のCDも出している。その中で「宿」は力なく終わっている。2007年9月の録音だから少なくともそれまではそういう解釈をしていた。アコーディオンはこのCDの演奏者と同じだ。あとの奏者は日本人。
アコーディオンの音色が似つかわしい。器楽はひとまとまりとなってオルガンのようにも聴こえた。フルートが突出して聞こえてしまうのではないかと思ったが杞憂だった。菩提樹の次辺りから曲順が替わっているので次にどの曲が来るのか分からない。
アコーディオンが長い音を演奏し始めた。次の曲は何だ?こんな曲あったっけ・・・・?おお!・・・・「宿」だ!シュトゥッツマン&ゼデルグレンの演奏のように遅いぞ!
んん・・・・何だ?人の声じゃないのか?遠くでコラールの歌声が聴こえるぞ?(周りを見回す)あれ?・・・・合唱はいないようだが。バンダかな?・・・・舞台裏で歌っているのか?(更に周りを見回す)
おお!器楽奏者が声を出しているんだ!ハミングか、歌っているのか?・・・・よく聞きとれない・・・・おお、それにしても何たる効果だ!死の床につこうとしている男にこの温かい響きこそふさわしい!!!
最後の一連が始まる。いよいよここからだ!死を受け入れた男に転機が訪れる。
「おお、つれない宿屋よ、
こんなに頼んでもだめなのか、
それでは先へゆくばかり、
この忠実な杖を頼りとして!」
最後の二行は繰り返される。
1度目はふっと力が抜けた・・・・
そして2度目は・・・・・
復活のエネルギーが腹の底から湧き上がる!!! こうでなくちゃ!フォルテだ!フォルテで歌いきった!!! おおおお、なんて素晴らしいんだ!!! そして後奏は・・・・・おおおお、アコーディオンが力強く演奏しきった!!! す、す、素晴らしい!!!
完璧な「宿」だった。プレガルディエン自身が「宿」の解釈を変えていたのだ。
22曲目となっていた「孤独」の最後のあの慟哭もたまらない!!!最後の「辻音楽師」、アコーディオンの空虚五度がいい!
「おまえはぼくの歌に合わせて
オルゴールを回してくれるか。」
最後の声が訴えるかけるように僅かにクレッシェンド・・・・・そして虚空に消えて行く・・・・・
そうだ。困難や絶望と真摯に向かい合って生きる生きざまこそ真に尊く美しいんだ!
長い沈黙
拍手喝采が続いた。
一切皆苦、すべてが苦という意味にとるとペシミズムの極地だが、この苦とは思い通りにならないということらしい。なかなか思い通りにはいかないものだ。そこを生きてこそ、ということか。この演奏会は5月10日19:30からNHKで放送されると書かれていたように思うが定かではない。
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52 ゲルネ&ヒンターホイザー「冬の旅」演奏会に想う (2017/10/23 )
2017年10月22日(日)19;00サントリーホールでのゲルネの演奏会に行った。台風が接近しているので行くのをやめようかとも思ったが、気を取り直して出かけた。以前武満の「それが風であることを知った」の演奏会も台風だったのを覚えている。こういう時こそ記憶によく残るものだ。ピアニストがエッシェンバッハからヒンターホイザーに代わったのと台風の接近からであろう、客席は半分埋まっているかどうかだった。
ゲルネは色々なピアニストと冬の旅を録音してCDを出しているが気に入った演奏がない。エッシェンバッハとの録音は中でも好きな方だが、ヒンターホイザーとのDVDは見ていなかったので少しは期待していた。いつもの通り第21曲「宿」をどのように演奏するかが私にとっての最大の関心事だ。
「おやすみ」が始まった。柔らかな声。優しいピアノ。曲が進むにつれピアノが細かいフレーズを丁寧にというか、ゆっくりと演奏するのが気になり始めた。ソフトに、優しく。まるで主人公を可哀想にと思うように。「菩提樹」「春の夢」美しい。1部の最後「孤独」はもっと激しい感情の訴え、慟哭が欲しい。「カラス」ピアノがいい。冴え渡った冬の寒空を思い起こさせるような硬い音だ。犬の吠える「村で」が印象的、とうとう「道しるべ」が終わると問題の最後の4曲になる。
「宿」だ。コラールが始まる。とても遅いテンポ。主人公は死を決意するが墓である宿から拒否され、再び忠実な杖とともに歩み始める。ゲルネはフォルテで歌い切る。後奏のピアノは…ああ…哀れんでいるかのように、減衰してしまった…「ライアーマン」…もう救いはない。
プレガルディエン&ゲースの演奏を聴いてから「宿」は「冬の旅」で最も重要な曲となった。特に後奏を担うゲースの解釈は他のどの演奏にもないはっきりとした意志の表れであった。魂が震えた。それは人間への信頼である。魂の信頼である。どんなに辛い状況でも、どんなに心が萎えていても、また立ち上がることができる。そう信じさせてくれる強いメッセージである。ライアーマンの奏でる空虚の中、虚無の中でも、魂の奥底でその信頼があれば生きていける。主人公はライアーマンにはついて行かないのだ。ゲルネ・ヒンターホイザーの演奏を聴いて、返ってプレガルディエン・ゲースの演奏を想った。忠実な杖とは魂への信頼なのではないか…、そう考えさせてくれた。
終曲が終わって、さて長い沈黙を味わおうと期待した。が、待ちきれず手を叩く者があった。ああ…
帰り際、「なんであそこで拍手するのかな?もうちょっと待てないの?」という声を聞いた。そう思う人がいて嬉しかった。
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53 「死せる菩提樹シューベルト«冬の旅»と幻想」(2019/6/10 )
梅津時比古氏の「死せる菩提樹シューベルト«冬の旅»と幻想」(春秋社2018)を読んだ。菩提樹を軸としてミュラーとシューベルトの社会批判、叫びを浮かび上がらせ、ニーチェへと論を進めている。大変興味深かった。
菩提樹の象徴が持つもう一つの側面
『壁の外に立っている菩提樹は、壁の内側から、外のものを救ってやろう、とする傲慢な思想の下にあるとも言える。言葉を換えれば、ここでは菩提樹こそが、その下にいる者に、壁の内の思想に恭順の意を表するか、外の生き方を貫くか、厳然と選択を迫る踏み絵になっている。菩提樹の「おいで、ここへ、君、ここならやすらげるのに」との言葉を拒否して、主人公が離れてゆく所以のひとつである。(p.22)』
壁の内側の市民、富裕層、為政者、聖職者
『為政者が決める起立から少しでもはずれた者を<非人間>の領域に追放することによって、壁の内側の為政者と市民は安全に守られ、"健全なる社会"を謳歌できる。シューベルトが生きたビーダーマイヤー期の市民生活は、政治、宗教、体制に異を唱えさえしなければ、安穏、快適な生活が保障されていた。すべてに権力からの検閲が徹底され、男声合唱でさえ政治批判集会になるおそれがあるとして禁止される状況の中で、壁の内側は骨抜きのための快楽の場と化し、舞踏会場は風俗の場ともなった。聖職者たちすら性的に自らを律していなかったことは、シューベルトが兄への手紙で激烈に批判している。まさに市民社会の中心であるウィーンに住みながら、シューベルトがそこに違和感、疎外感を抱いていたことも、グラーツのパハラー夫人宛の手紙に残されている。(P20)』
風見鶏
『本来、風見鶏には、福音書におけるペテロを象徴する意味合いがある。イエスへの忠誠を誓ったのにもかかわらず、身に危険が迫ると、「イエスを知らない」と言ってしまった弟子ペテロの人間的な弱さ。それを預言するイエスの「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度、わたしのことを知らないと言うだろう」との言葉を思い起こさせるために、風見鶏は雄鶏の姿にかたどられている。バッハ«マタイ受難曲»などに«ペテロの否認»として描かれる福音書のもっとも劇的な場面、そこにおける人間の弱さとイエスの赦しが、雄鶏に象徴されているのである。
ところがミュラーは、この詩において風見鶏が主人公の青年を追い立てるように描き、シューベルトはさらにそれを激しくいらだたしい音で強調する。教会的な風見鶏の意味を無化し、背後で半ペテロと半富裕層の牙を研いでいる。菩提樹の木の下を離れるのと同じように、主人公は福音書の世界から離れていこうとしている。(p23)』
宇宙樹としての菩提樹
『北欧ゲルマンをはじめとしていくつかの民族に<宇宙樹(世界樹)>の神話がある。
概略図で言うと、<宇宙樹(世界樹)>の大木が宇宙の中央にあり、天と地下と、その中間にあるこの私たちの世界とを貫いて結んでいるというものである。(p98} ………
«冬の旅»の主人公にとって、かつては菩提樹が、世界への親和と理解を持つための宇宙樹の似像としてあった。しかし、主人公は俗にまみれた似像への懐疑を抱き始め、似像から逃れようとしてきた。その過程で襲われた、似像の崩壊の感覚は、主人公を似像ではなく本質的な宇宙樹の探求へと導いたと言っていい。主人公は、社会的な疎外に関わる幻想として機能した菩提樹ではなく、本来の豊かに緑なす菩提樹を求めて、すなわち世界の本質を探し求めることへと、さらに歩みを進めることになったのである。(p102)』
神は死んだ、その世界を彷徨している。でも、私には菩提樹を"求めて"、世界の本質を"求めて" いるように聴こえない。"求める"意志さえ失われた暗黒の世界を彷徨している。どうしたら良いかわからない、そう聴こえる。
ライアーマンは自己の投影であり、影に問いかけている。そこに解決はない。だからこそ、プレガルディエン&ゲースによって初めてはっきりと示された「冬の旅」第21曲「宿」最後での主人公の意志の萌芽こそ、真に、真に尊く、心を感動で振るわせるのだ。
単に「宿」に拒否された反発かもしれない。しかし、立ち上がろう、歩き始めよう、という心のエネルギーが湧き上がってきたこと、自暴自棄にならず、忠実な杖をたよりに歩き始めようとする、そのような不思議な力がどこからか湧き上がること、だからこそ私というもの、人間というものを信頼して良いのではないか、とゲースのピアノの後奏がフォルテで確証する。
心の拠り所のない世界、神なき世界、主人公はそこを歩もうとしている。現代、はるかに豊かになった神なき世界。コミュニティー、親子関係すら危うい、繋がりの薄い世界。人間というものを信じたい。
Winterreise D.911 Josef Greindl (Bass)Hertha Klust (Piano)LP
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54 ディドナートからルートヴィヒへ 「冬の旅」(2021/5/17)
最近リリースされたジョイス・ディドナートとヤニク・ネゼ=セガンの「冬の旅」のCDを聴いた。ネゼ=セガンはメトロポリタンとのブルックナー全集を聴いて好感を持っていたので、「冬の旅」をどう演奏するのかとても興味を持った。
21曲目「宿」は歌、ピアノともにフォルテで終わった。希望が生まれる解釈をとっている。ディドナートの歌は素晴らしかったが特には印象に残らなかった。声の質が甘い音色というか高い音質なので冬の旅には向いていないかなと思った。
No 21: 宿 Das Wirtshaus (by Wilhelm Müller 1794-1827)
Auf einen Totenacker |
旅もここまでやってきた |
Hat mich mein Weg gebracht. |
ある墓地へと |
Allhier will ich einkehren: |
ここで夜の間 |
Hab' ich bei mir gedacht. |
休ませてもらおう |
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Ihr grünen Totenkränze |
緑の葬儀の輪よ |
Könnt wohl die Zeichen sein, |
お前は疲れた旅人を |
Die müde Wandrer laden |
招き入れる看板に違いない |
In's kühle Wirtshaus ein. |
冷たい宿へと |
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Sind denn in diesem Hause |
この宿の全ての部屋が |
Die Kammern all' besetzt? |
塞がっているというのか |
Bin matt zum Niedersinken |
倒れるほど疲れ切って |
Bin tödlich schwer verletzt. |
死ぬほど傷ついているのに |
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O unbarmherzige Schenke, |
ああ、無慈悲な宿屋よ |
Doch weisest du mich ab? |
それでも冷たくあしらうのか |
Nun weiter denn, nur weiter, |
それでは前へ踏み出そう |
Mein treuer Wanderstab! |
信頼できる杖よ! |
(ハイペリオンのシューベルト歌曲全集の英訳による)
女声で他の演奏と比較しようと思って、亡くなったクリスタ・ルートヴィヒのCDとDVDを取り出した。CDが1986年レヴァインのピアノ、DVDが1994年スペンサーのピアノでの録音だ。ルートヴィヒは「冬の旅」を大切に思っていたのだろうと思う。2度録音しているのとYoutubeに録音状態はあまり良くないが1985年のヴェルバとのミラノでのコンサートの録音もある。ありがたい。DVDは今まで聴いていなかったから新鮮だった。ブルーのドレスをまとったルートヴィヒが旅する若者に共感を持って歌う。
第1曲目「おやすみ」から惹きつけられた。声質が柔らかくとても聴きやすい。だから冬の旅の世界に自然と入っていける。こちらも期待通り「宿」は歌、ピアノともフォルテで終わる。決して若者を突き放さない、人間の魂への信頼。とても感動的だ。
プレガルディエンと違ってルートヴィヒはどの演奏も一貫して最後をフォルテで終わっている。終曲「辻音楽師」ではディドナートが僅かにクレッシェンドしドラマチックに盛り上げるが、ルートヴィヒは自然にそのまま終わっている。
3つの録音の時間を比較した。
11.「春の夢」DVDではディドナートより1分ほど長く、夢見るようなここちだ。
21.「宿」もDVDでは1分以上長く味わいがある。
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DIDNATO (2019) |
LUDWIG (1986) |
LUDWIG (1994) |
1. Gute Nacht おやすみ |
5.46 |
6'20 |
5:27 |
2. Die Wetterfahne 風見 |
1.39 |
1'45 |
1:48 |
3. Gefrorne Tränen 凍った涙 |
2.28 |
2'59 |
2:36 |
4. Erstarrung 氷結 |
3.09 |
2'33 |
2:36 |
5. Der Lindenbaum 菩提樹 |
4.46 |
4'28 |
4:15 |
6. Wasserflut 雪解け水 |
3.29 |
3'55 |
3:49 |
7. Auf dem Flusse 川の上で |
3.27 |
3'32 |
3:03 |
8. Rückblick かえりみ |
2.12 |
2'11 |
2:12 |
9. Irrlicht 鬼火 |
2.40 |
2'39 |
2:39 |
10. Rast 休息 |
3.48 |
3'57 |
3:17 |
11. Frühlingstraum 春の夢 |
3.53 |
4'25 |
4:54 |
12. Einsamkeit 孤独 |
2.45 |
2'41 |
2:03 |
13. Die Post 郵便馬車 |
2.08 |
2'41 |
2:53 |
14. Der greise Kopf 白髪の頭 |
3.12 |
3'07 |
2:39 |
15. Die Krähe からす |
1.42 |
1'39 |
1:25 |
16. Letzte Hoffnung 最後の希望 |
2.03 |
2'10 |
2:02 |
17. Im Dorfe 村で |
3.13 |
3'06 |
2:26 |
18. Der stürmische Morgen 嵐の朝 |
0.46 |
0'56 |
0:58 |
19. Täuschung まぼろし |
1.30 |
1'21 |
1:18 |
20. Der Wegweiser 道しるべ |
4.01 |
4'17 |
4:20 |
21. Das Wirtshaus 宿 |
4.02 |
4'56 |
5:18 |
22. Mut! 勇気 |
1.17 |
1'36 |
1:32 |
23. Die Nebensonnen 幻の太陽 |
2.53 |
2'45 |
2:29 |
24. Der Leiermann 辻音楽師 |
3.28 |
3:44 |
3:57 |
YouTubeにはDVDの映像はアップされていなかったが、CDの録音11.「春の夢」があった。特に3節、6節の夢の振り返りのところがいいんだ。美しくて悲しくて。
11.Frühlingstraum 春の夢 (by Wilhelm Müller 1794-1827)
Ich träumte von bunten Blumen, |
鮮やかな花の夢を見た |
So wie sie wohl blühen im Mai, |
5月に咲く花の |
Ich träumte von grünen Wiesen, |
緑の野の夢を見た |
Von lustigem Vogelgeschrei. |
楽しそうな鳥の囀りと |
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Und als die Hähne krähten, |
そして雄鶏が鳴くと |
Da ward mein Auge wach; |
目が覚めた |
Da war es kalt und finster, |
冷たく暗く |
Es schrieen die Raben vom Dach. |
屋根でカラスが鳴いていた |
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Doch an den Fensterscheiben |
でもそこの窓ガラスに |
Wer malte die Blätter da? |
誰が木の葉の絵を描いたのだろう |
Ihr lacht wohl über den Träumer, |
夢見た者を笑っているのか |
Der Blumen im Winter sah? |
冬に花を見た者を |
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Ich träumte von Lieb' um Liebe, |
愛し合う二人の夢を見た |
Von einer schönen Maid, |
かわいい女の子との |
Von Herzen und von Küssen, |
抱きしめてキスをした |
Von Wonne und Seligkeit. |
喜び夢中になって |
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Und als die Hähne krähten, |
そして雄鶏が鳴くと |
Da ward mein Herze wach; |
心が目覚めた |
Nun sitz' ich hier alleine |
ここに一人座って |
Und denke dem Traume nach. |
夢のことを思い起こした |
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Die Augen schliess' ich wieder, |
また目をつむると |
Noch schlägt das Herz so warm. |
胸はまだ温かく脈打っている |
Wann grünt ihr Blätter am Fenster? |
窓の葉よ、いつ緑になるのか |
Wann halt ich mein Liebchen, im Arm? |
いつこの腕に恋人を抱くのか |
(ハイペリオンのシューベルト歌曲全集の英訳による)
男声で歌われる冬の旅が、女声のルートヴィヒによって歌われても違和感はないばかりか深い共感と感動を味わった。感謝!