シューベルト「冬の旅」についての記録(1)

シューベルトの歌曲集「冬の旅」ほど魅力的で心に深く残り考えさせられる音楽はない。ボストリッジの著書『シューベルトの「冬の旅」』を読みながらまた聴き直そうと思う。以前読んだ本や考えたことを忘れてしまっているのでまずそれらを再掲することにした。もう20年も前のコンサートの記録。熱い想いが伝わってくる。

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〓〓〓ゲルネ冬の旅 2003/12/18 

昨夜、ゲルネの演奏会に行ってきました。東京オペラシティーでした。ゲルネは柔らかく良く響くバリトンで、知的で立派な歌を聴かせてくれました。ピアノはエリック・シュナイダー。

5曲目の菩提樹までは眠気との戦いで、朦朧としてましたが、6曲目「雪解け水」から12曲目「孤独」に至るとってもいいところにさしかかると、ようやくお目目パッチリランランランで、しっかり聴くことができました。

これまでにコンサートで聴いたボストリッジやプレガルディエン、シュライヤーとは違って、どちらかというとディスカウに近いタイプです。決して羽目をはずすことがなく、十分に考えられ、安定した素晴らしい声でした。私としては羽目をはずすくらい、のめりこんだ歌が好きなんですが。

「おやすみ」のあのピアノが始まると、憔悴しきってさまよう青年がそこに立っているのでした。冬の旅を聴くと、一つのドラマの中のさまよう青年を「演じる」というより、歌い手が「生きる」と形容しても良いほどのリアリティーを感じます。これは相当の集中力とエネルギーを使うのでしょうね。

朝日新聞のインタヴューの記事には、『水車小屋の娘』は「シューベルト自身が自らの暗い部分を表現しようとしているように思えてならない。」一方で『冬の旅』は「歩みこそ苦しげだが、最後には新しい人生への希望が垣間見える。前向きな気持ちを忘れずに歌わなければいけないのです。」と言っていて、なるほどと思いました。

『水車屋』では主人公は死んでしまって先は続かないけれども、『冬の旅』では出会いがあり、次の段階に行く可能性を秘めていますものね。

前回来日中止になったこともあるからなのか、『冬の旅』であるにもかかわらず、アンコールを4曲も歌ってくれました。さすらい人の夜の歌、鳩の使い、ミューズの子、漁師の歌。いや~素晴らしかったぁー!だからコンサートは止められません。

 

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〓〓〓シェーファー冬の旅 2004/3/20

&エリック・シュナイダー(Pf) 東京オペラシティー

第1曲目「おやすみ」が始まると、ああ女声による「冬の旅」なんだと改めて感じさせられました。音が低いせいか、それとも声が透明すぎるのか、はたまた男声で聴きなれているせいか、あまりよく響いてこないように思いました。

しかし「ぼだい樹」あたりからぐいぐいと引き込まれて、さすがにノックアウトさせられました。「ぼだい樹」「春の夢」は、幸せな時をふり返ったり、夢見たりするこういう表現じゃなくっちゃ!という素晴らしいものでした。

「辻音楽師」の終わりの部分で僅かにクレッシェンドして終わるところ、グッときましたね。
もうちょっと余韻を楽しみたかったのに、待ちきれずに拍手があったのがとても残念でした

魂との対話というのでしょうか、こういう深いコンサートの後は言葉がありません。アンコールはありませんでした。
ピアノのシュナイダーと並ぶと、シェーファーは小柄で、とてもチャーミングに見えました。

さて、いつも思うのが、この若者は冬の旅のあと、どのように生きていくのかということです。喜多尾道冬さんのプログラム解説にはこうあります。

>シューベルトの《冬の旅》が今なお私たちをひきつけてやまないのは、彼と「冬の旅」をともに歩めば、暗い道の行く手に光を見出せる、そう確信させるヒューマンな励ましが、その中に秘められているからであろう。

「光を確信させるヒューマンな励まし」はいったいどこに描かれている、あるいは秘められているのでしょうか。

またこうも書かれています。

>24.辻音楽師
この極寒のさなか、孤独に曝されているのは若者だけではない。彼はこんなところにも自分の仲間がいるのに気づく。ここにも犬があらわれるが、彼ははじめて吼えつかれない。若者は落胆の老人を通して動物とのあいだに親しみを得たのであろうか。死の淵を覗き込んだ若者は、ここで生きる意味を見出したように見える。

若者は「生きる意味」を見出したのでしょうか。それはいったいどんな「生きる意味」なのでしょうか。私にはどこにもそれらしいものをこの歌の中に見出せないでいます。

それよりも若者は冬の旅を通して、世の中の見方が変わったのではないでしょうか。木や小川、カラス、木の葉などと対話することなど今までなかったはずです。辻音楽師に目を向けることもなかったはずです。

「17.村で」で描かれる村人の世界(自分も今までその中にいた世界)から、もう一つ広い視野を手に入れたのではないかと思うのです。もうすでに若者は次元の違う世界に立っているといえるのではないか。

辻音楽師は誰も聴かないライアーをそれでも回し続けます。それは、死ぬまで生き続けるのだ(自死の否定)といっているのでしょうか。喜びも悲しみも共に受け入れて。内田のアンコール「楽興の時」を聴いた時に感じたものと同じです。
冬の旅を聴くと、家へ帰る間いろいろ考えてしまいます。

 

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〓〓〓人間性へのぎりぎりの信頼 2004/ 3/23

>「いわば心の絶対零度の地帯にも人間的な共感のよすがは見いだされる。その人間的なほのかなあたたか味といたわりが、わずかでも感じられるかぎり、この世は生きるに値する。『冬の旅』の絶望と虚無の果てにひびき出ているのは、人間性へのこのぎりぎりの信頼である」(ディスカウ&バレンボイムCDの喜多尾道冬氏のノートより)

たしかシューベルト・イヤー(1997年?)に、レコード芸術に載った喜多尾道冬さんの文に私も惹きつけられました。産業革命によってそれまでの徒弟制度が崩れ、人々の心の中に虚無感が漂い始めたという社会背景もふまえて「冬の旅」に迫っていくものでした。

ただ、今回シェーファーのプログラムの中に「光を確信させるヒューマンな励まし」や「生きる意味」の見出しという、もう一歩踏み込んだ表現があったので疑問に感じ、改めて考え直すきっかけとなったのです。

「この世は生きるに値する」、「人間性へのこのぎりぎりの信頼」は、ひしひしと伝わってきます。しかしながら、とても消極的な生き方でしょう。

「光を確信させる」とか「生きる意味」とかという表現からは、もっと積極的なニュアンスが感じられます。私はどうしてもそのような積極的なメッセージを聴き取りたかったのです。

不思議なライアー回しの老人が、その疑問の鍵を握っているように思います。若者はその老人と旅を一緒にしなくてもいい、ただこの世にいてくれるだけでいいのではないかとも思います。ただ、存在しているだけで意味がある、それは解るのですが、それは他者にとって意味がある。「水車屋」に「小川の子守唄」で私が叫んだように。それをどのように捕らえて自己の「生きる意味」とするのか、または違う解釈をするのか、もっと考えてみたいと思います。

老人の生き方の問題、脳死の問題、自殺の問題など、重いけれど避けられないテーマと関わってきますね。

 

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〓〓〓ボストリッジ冬の旅 2004/ 3/22

明日のボストリッジ「冬の旅」のプログラムノート(「水車屋」と一緒に載っている)には、國土潤一さんがこのように書いているのです。

>…「不治の病」により、シューベルトの体は1823年ころからはっきりとした自覚症状を示し始める。…音楽史上前例のなかったペシミスト、悲しい憧れを歌うシューベルトが、それまでのロマンティスト=シューベルトから生まれるのだ。…

…この進展しない絶望のドラマ(同じミュラーの詩による『美しい水車屋の娘』の進行するドラマに対し、『冬の旅』は他者との関わりを絶ち、ひたすら主人公の青年の心象風景が描かれている)は、生という宿命を中心とした、諦念と夢想が生み出す心の深淵を見せてくれる。この失意の男が、終曲である第24曲で出会ったライアーを弾く乞食の辻音楽師と共にどこへ向かっていくのか、永遠の謎と問いかけを残して、シューベルトは全曲を閉じる。

これを読む限り、先に引用した喜多尾道冬さんの「光を確信させるヒューマンな励まし」や「生きる意味」の見出しという明るいイメージとはかけ離れた解釈(極言すれば救いのない解釈)に思えます。

「冬の旅」のこの不思議な魅力は何なんだろうと思い続けてきましたが、ふと、こうなんではないかと思い始めました。それは、「辻音楽師がライアーを回し続ける」ということに注目するのです。誰も聞いていない…、お金にもならない、それでもなお素足のままのこの老人はライアーを一生懸命回し続けます。ばかばかしい、どこかもっと暖かいところで世間を呪いながらふてくされて寝ていた方がいいのに。こんなことができるのは、神か、宗教家か、揺るがぬ信念を持った哲学者(怪しい?)か、長い習慣が身に染みついた老人か、とにかく世間を斜に見る態度ではないでしょう。

深い孤独や絶望を味わった者は、きっとこの若者が理解できるだろうと思います。この若者が辻音楽師に共感するように。そして解ってくれる人がいるということは、ものすごい励みになり、力になる。「冬の旅」が終わると同時に、それを共感を持って聴く人が、その主人公の続きを生きるではないか。

不治の病を抱えたシューベルトのように、回復不能な悲しみを抱えながらも死ぬまで死なずに生き切る。少なくともそこには6人の理解者がいると思います。老人の辻音楽師、主人公の若者、作者のミュラー、作曲者のシューベルト、歌手と、ピアノ伴奏者。これは大きな力になると思います。

「17.村で」の村人の世界(一般)の目で見れば、若者はよそ者であり、「冬の旅」は陰鬱な重苦しいものに聴こえるでしょう。

一方、「死の淵を覗き込んだ者」にとっては、「光を確信させる」とは言えないけれど、ライアーを回し続ける老人が必ずいることに注目すれば、生きることに「ヒューマンな励まし」を聴くことができるのではないでしょうか。

昨日のボストリッジ&内田の「美しい水車屋の娘」の最終曲「小川の子守唄」を聴きながら、「何で死んじゃうんだ~!死ぬなよ!悲しいよ!」って心の中で叫んでしまいました。

 

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〓〓〓イアン・ボストリッジ冬の旅 2004/ 3/24

ボストリッジ、それはそれは素晴らしい歌手です。

昨日も、つま先から頭のてっぺんまで、その長身で細身の体全身、全力を使って表現しているように思われました。あんな細くて、よくあの大きなサントリーホールを響かすことができるなぁと不思議にさえ思います。「冬の旅」の若者が乗り移ったかの様な迫真の歌でした。特に「辻音楽師」の最後のワンフレーズ、

 Willst zu meinen Liedern (ぼくの歌にあわせて)

 Deine Leier drehn? (ライアーを回してくれるかい)

ここをまるで全生命をかけたかのように熱く歌いました。腹の奥底にズシンときましたね。ピアノが終わってからのあの長い余韻、もっともっと味わっていたかった…。

内田光子もボストリッジと共に歌いながら(もちろん声は出さないけれど)全ての一音一音を感じて弾いていました。

「22.から元気」のピアノの雄弁だったこと!改めて内田の素晴らしさを実感しました。会場から出るとき、髪を短くしたあのジェフリー・テイトとすれ違いました。

またまた、「冬の旅」について帰る途中で考えてしまいました。今度は「人との出会い」というキーワードが浮かんできました。

若者はある娘と「出会い」、傷つき絶望の淵を歩くが、ついにライアー回しの老人に「出会う。」逆にいうと娘と出会わなかったら、老人との「出会い」も生じなかった。歌おうとする意識が芽生えたこと自体、若者はもう危機を脱して、「光を確信させる」状態であるといえるのではないか。「出会い」は人に危機をもたらすこともあるが、避けて通ることはできない成長の重要な過程。

そして危機を乗り越えさせるのも「出会い」。意味ある「出会い」が必ず生じるという不思議な天の采配を感じました。

もう一つ考えたことは、心の深層への旅ととらえてもよいのではないかということ。若者は心の深層に潜んでいる娘(アニマ)を通して、老賢者と出会う旅を行ったのではないか。心理学で言う自己実現の過程を見て取れるのではないかな。

ますますシューベルトが好きになりました。