シューベルト「冬の旅」についての記録(2)

シューベルトの「冬の旅」についての記録2。「冬の旅」に関する本は数多く出版されている。それぞれが真摯で深い。どんな本を読んだか思い出してみる。

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1 疎外された人間の歌~「冬の旅」 (2007/5/2)

シューベルト「冬の旅 op.89,D.911」(1827)

ここで少なくとも言えるのは、ミュラーの『冬の旅』が失恋の歌ではなく、疎外された人間、どうしても社会と折り合いのつかない人間の歌だということである。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)

三宅幸夫氏の「菩提樹はさざめく」を読んだ。ヴィルヘルム・ミュラーの詩は失恋の歌ではなく、疎外された人間の歌であると言い切っているところに胸がスーッとした。以前「冬の旅」を評して、からかい半分に失恋男の愚痴をくどくど聞きたくないと言われたことがある。そのことが頭にこびりついてる。「冬の旅」は人間の存在に関わる、もの凄く深いものを持っているのだ。

三宅氏の「冬の旅」の解読分析は詳細で深く、ドイツ文学と音楽理論に詳しくないと歯が立たない。それでも何とか分かる所だけをつないでいくと、ぼんやりと全体像が見えてきた。そして新しい視点を与えられた。疎外された人間、どうしても社会と折り合いのつかない人間の歌である「冬の旅」、今をときめく勝ち組みの人間、勝ちを必死に追い求める人間にはとうてい理解不能だろう。

シューベルトは当時の不治の病、梅毒にかかった。1824年3月31日の親友レオポルト・クペルヴィーサーへの手紙が引用されている。

「…僕は自分がこの世で最も不幸で、みじめな人間だと感じる。健康はもう決して回復しようとしない。そのために絶望のあまり、事態を少しでも良くしようとしないで、ますます悪くするばかりの人間を想像してみたまえ。輝かしい希望はついえ、愛情と友情からもひどい苦しみしか受けず、美に対する感激(少なくとも励ましになる感激)も消え去りそうになった人間を想像してみたまえ。そういう人間は最もみじめで、最も不幸ではないか、と自問してみたまえ。― 安らぎは消え、心は重い。安らぎはもう二度と見出せない。僕は毎日そう歌いたいくらいだ。なぜなら毎夜、寝床につくとき、もう二度と目覚めたくないと思うのだが、いつも朝の訪れが昨日と同じ苦しみを予告するからだ。シュヴィントがしばしば訪ねてきて、あの過ぎ去った甘美な日々の輝きに僕の心を向けてくれる以外は、まるっきり喜びも友もなしに日々を送っているのだ…」

ノーマルな社会から疎外され、自分自身をも疎外する心情が述べられている。

では詩を書いたミュラーとはどういう人物なのだろうか。

Arthur Loosli (bass-bariton) Karl Grenacher (klavier) rec.1973 Jecklin szene sCHweiz JS 268-2

 

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2 ヴィルヘルム・ミュラー①「冬の旅」(2007/5/9)

「冬の旅」の詩を書いたヴィルヘルム・ミュラーとはどのような人物か。はたして疎外感を感じていたのだろうか。

ミュラーの生涯を見てみる。

三宅幸夫著「菩提樹はさざめく」(春秋社 2004)と南弘明・道子著「冬の旅 対訳と分析」国書刊行会 2005)を参考にした。

1794年10月7日

デッサウで仕立屋の親方レオポルト・ミュラーと妻マリーエ・レオポルディーネの7人の子供の第6子として生まれる。3歳になる前にすべて他の子供は他界し、子供はヴィルムヘルムのみとなる。その後職人階級にふさわしい国民学校ではなく、大学進学への道が開かれた本過程学校に入る。

1808年(14歳)

母親が亡くなる。父親が再婚し経済状況が好転。

1812年(18歳)

ベルリン大学に入学。この年ナポレオン軍大敗、プロイセンではフランス占領軍に対する解放戦争が始まる。

1813年(19歳)

2月、対ナポレオン軍に参加、秋からはブリュッセルの司令部に配属。

1814年(20歳)

ブリュッセル滞在中にテレーゼという女性と恋に落ちる。恋愛沙汰が発覚し、軍の規律と名誉を汚したと後ろ指を差された可能性がある。11月18日ブリュッセルを離れる。「冬の旅」の原型がこの帰郷への旅とする説もある。初めての連作詩集『美しき水車小屋の娘』が書かれる。

1815年(21歳)

10月ベルリンに戻り、若い画家ヴィルヘルム・ヘンゼルと交流、その妹ルイーゼに関心。ベルリン大学の専攻は古典言語学と歴史学、そして英文学と独文学を学ぶ。グリム編『子供と家庭の童話集』、『子供の不思議な角笛』が当時の独文学研究の主流で、それを自身の詩作の規範とした。「真にドイツ的な」「古いドイツ」を追い求め、中世のミンネザングの現代語訳集を出すに至る。詩集『同志の華』出版、対ナポレオン戦争従軍中の愛国的な詩が多い。

1817年(23歳)

プロイセンのアルベルト・フォン・ザック男爵のギリシア・オリエント旅行に同伴することになる。8月20日ギリシアの亡命知識人が多く住むウィーンに発ち、二か月余滞在、ギリシア解放運動の意味を学ぶ。コンスタンチノープルでペストが発生したため、11月6日イタリア経由でギリシアに行くことになり、ウィーンを発つ。イタリアの生活文化に熱中し数ヶ月間イタリアに滞在、ザック男爵と不和になる。イタリアにボヘミアンとして集まっていた、ドイツの反動主義的な傾向に失望した画家・詩人・建築家と交流。

1818年(24歳)

8月ローマを発ち、デッサウに帰郷。「祖国は霜と雪と霧で、私を迎えてくれた。それだけなら、まだ耐えられるのだが、あの俗物根性ときたら…」と幻滅。

1819年(25歳)

旅行から学術的な成果もあげられず、大学から学位を得たわけでもなかったためベルリンで職を得られなかった。故郷デッサウでラテン語、ギリシア語、歴史、地理の助教員となる。アンハルト公爵の図書館でも働く。国民主義・自由主義を弾圧するカールスバード決議がなされる。

1820年(26歳)

アンハルト公爵の図書館の正式な司書になり、執筆活動の時間を持てるようになる。雑誌「アスカニア」創刊、さまざまな執筆活動を行うようになる。父が他界。『ローマ、ローマ男たち、ローマ女たち』を出し、幅広い読者層を獲得。〔この春の詩は冬に読むべし〕と断り書きのついた『美しき水車小屋の娘』が含まれる最初の詩集『旅するヴァルトホルン吹きの遺稿から七十七の詩/第一冊』出版。(カール・マリア・フォン・ヴェーバーに献呈)

1821年(27歳)

『ギリシア人の歌』第一巻を出版、有名人になる。ギリシア独立運動とトルコに対する解放戦争を支持、同時にドイツの現状に批判。『ギリシア人の歌』六巻(1821~24)により、「ギリシアのミュラー」と呼ばれることになる。5月、教育者の家系のバーゼド家のアーデルハイトと結婚、社会階層を一段登る。暮れ「冬の旅」前編12篇を作る。

1822年(28歳)

この年の初め、雑誌『ウラニア』に『冬の旅』前編12篇を送る。娘アウグステ生まれる。十巻からなる『一七世紀ドイツの詩人双書』の編纂が始まり、バイロンの著作の研究も始まる。

1823年(29歳)

息子フリードリヒ・マックス生まれる。さまざまな文学者との接触を計る小旅行。雑誌『ウラニア』で『冬の旅』前編12篇発表。さらに文芸雑誌『詩、文学、美術、演劇のためのドイツ新聞』に『冬の旅』後編の10篇の詩を発表。

1824年(30歳)

宮廷顧問官に任命される。『郵便馬車』と『まぼろし』の二篇を加え、全二十四篇の『冬の旅』を含む『旅するヴァルトホルン吹きの遺稿からの詩/生と愛の歌』第二冊出版。『ホメロス入門』上梓。

1825年(31歳)

翻訳『現代ギリシア語による民謡』編纂。ベルリン、リューゲン島、ドレースデンを訪れ、メンデスルゾーン、ティークと交流。

1826年(32歳)

この年から病気がちになり、重い百日咳で療養。療養からの帰り、バイロイト、ニュルンベルク、バンベルク、ヴァイマルを訪れ、ゲーテと対話する。デッサウの劇場で演劇の演出。

1827年(32歳)

詩集『抒情的な旅行と寸鉄詩ふうの散歩』、小説『十三番目の男』を出す。7~8月にライン旅行、ボンでシュレーゲル、ヴァインスベルクでケルナー、ウーラント、そして後にミュラー作品集の編者となるグスタフ・シュヴァープと会う。デッサウに戻り、著作を続行するが、10月1日脳卒中で他界、33歳の誕生日前だった。

生涯を見渡してみると、「冬の旅」の作者は、かなり裕福だったことがわかる。そして「冬の旅」は、ミュラーの結婚後、娘と息子を授かったころ、傍からは幸福の絶頂期と見える時期に書かれている。

ミュラーは表面上、しっかり社会の一員になっていてアウトサイダー的要素は感じられない。仕立て屋の階級だった者が、上流階級の中で窮屈さや退屈さを感じたのだろうか。「冬の旅」の第12曲目「孤独」のところで、三宅幸夫氏はこう言う。

とりわけ最終行「こんなに惨めではなかったのにWar ich so elend nicht」は『冬の旅』の中でも最も衝撃的な箇所のひとつといえよう。「嵐が吹きすさんでいたときに」には「とても惨めだったWar ich so elend」と読んでいくと、最後に置かれた否定詞nichtが、これを根こそぎひっくり返し、「嵐が吹きすさんでいたときでも/こんなに惨めではなかったのに」と真意を明らかにするからである(正しい語順はWar ich nicht so elend)。ちなみにドイツの研究者の中でも、なぜミュラーが人生の最も幸福な時期に『冬の旅』のような暗い詩を書きえたのかという素朴な疑問を呈する人が少なくないが、それは『冬の旅』の読解が浅いからだろう。その疑問に対する答えは、まさに「孤独」の最終局面における「どんでん返し」に込められているのである。(p144)

傍から見ると幸福の絶頂期であるからこそ、疎外感が高まったのだと言っているのだろう。しかしまだわからない。ミュラーの疎外感とはいったいどのようなところに根を持っていたのだろうか。詩を書くということ、それ自体感受性の強い性格であったことはわかるのだが。

そして生涯その疎外感は解決されなかったのであろうか。結婚や家族を持ち、地位を持ったとしても。さすらいを宿命に持つものはさすらいの中で死ぬのか。

 

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3 よそ者、そして自己疎外「冬の旅」 (2007/5/26)

Bernhard Berchtold (tenner) と Irina Puryshinskaja (piano) の「冬の旅」は、悩み、疲れ、躊躇したような遅い足取りで始まる。「おやすみ」の6分37秒はだいぶ遅いほうに入る。しかしもたれるような重さはなく、ピアノも美しい。何より、ピアノで始まって第3節に入るところでフォルテになるところは感動ものだ。ボストリッジとはまた違った、すばらしいテノール、そしてピアニストだ。

三宅幸夫氏の「菩提樹はさざめく」(春秋社 2004)は興味深く、考えさせられる。しばらく、この本と Berchtold & Puryshinskaja のCDを聴きながら「冬の旅」に集中する。ああ、すべてが生命を輝かす季節だというのに!

「冬の旅」第1曲「おやすみ」の冒頭。〝よそ者”は結局〝よそ者”として出て行く。

ミュラーは冒頭の二行「よそ者としてやって来て/よそ者のまま去ってゆく」で、寸鉄詩ふうに詩集のモットーを呈示した。ただ「よそ者」と訳した原語 fremd が名詞ではなく格変化を伴わない副詞であり、いわば裸のまま行頭に置かれていることに留意すべきだろう。このモットーは、主人公が「よそ者」つまり異郷の出身ということだけでなく、主人公が社会になじめなかったこと、そして社会もまた主人公になじめなかったことも含意している。さらに、このモットーから主人公のアウトサイダーとしての生きざまを読み取ることもできるし、みずからの意志とは関わりなくこの世に投げ込まれ、この世になじめないまま、みずからの意志とは関わりなくこの世から投げ出される――そうした人間の生そのものの象徴としてこのモットーを捉えることもできるだろう。さしあたって「冬の旅」のキーワードは「疎外 Entfremdung」である。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)

まったく自らの意志でこの世に生まれたわけでもないし、死にたくないと思ってもいつかは死なねばならない運命。この世になじんでうまくやっている人が多いのに……。「冬の旅」の主人公は冒頭からアウトサイダーとしての自分を歌う。犬にも吠えられ、〝よそ者意識”はさらに増す。

第8曲「かえりみ」でもカラスが雪や雹を投げかけ、第17曲「村にて」でも犬が〝よそ者”に吠えかける。16部音符が鎖の音で8部音符が吠える描写という。ジャラジャラジャラジャラ・ワン!!か。ここはお前のようなよそ者のいるところじゃないぞ、立ち去れ、ワン!!

『冬の旅』の基本的モティーフは「自己疎外」である。

『冬の旅』の基本モティーフが「疎外」であることはすでに指摘されているところだが、それは個人(恋人とその両親)による疎外(第二曲「風見」)、あるいは社会による疎外(第一曲「おやすみ」)というよりも、むしろ主人公のアイデンティティの危機にほかならない。一例を挙げるならば、感傷的にしか受け取られていない詩「凍れる涙」にも、自分が気づかぬうちに涙が流れていた驚き(精神と肉体の乖離)、さらには流れた涙が「なまぬるく」自分が考えていたような「冬の氷を融かす熱い涙」ではなかったことへの驚き(理想と現実の乖離)が表明されている。この「道しるべ」では「なんと馬鹿げた欲動が」のひとことにおいて「自己疎外」が鋭く強調されている。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)

個人から疎外され、社会から疎外され、自分を疎外する。自己疎外とはどういうことか。

疎外

①うとんじ、よそよそしくすること。

②[哲]ヘーゲルでは、自己を否定して、自己にとってよそよそしい他者になること。マルクスはこれを継承して、人間が自己の作り出したもの(生産物・制度など)によって支配される状況、さらに人間が生活のための仕事に充足を見出せず、人間関係が主として利害打算の関係と化し、人間性を喪失しつつある状況を表す語として用いた。

自己疎外

[哲]ヘーゲルの用語。精神や理念が自己を否定して、自己にとってよそよそしい他者となること。初期のマルクスはこれを資本主義体制の下で、人間が本来自己の作り出した経済・政治・宗教などの社会的諸条件にとらわれ、主体としてのあり方を失う状態として論じた。(広辞苑より)

自分自身を否定して、何もかもいやになることか。自己疎外の行き着くところは、自殺か、宗教への入門かだろう。しかし、「冬の旅」の主人公はどちらもしない、というかできない。ただ当てもなく、さまようしかないのか。ライアー弾きの老人のように。いや、……

rec.2006 Edition Klavier-Festival Vol.12 553029

 

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4 菩提樹の誘い①「冬の旅」 (2007/5/29)

「菩提樹はさざめく」(三宅幸夫著 春秋社 2004)の「菩提樹」にはショックを受けた。あのほっとするような美しい「菩提樹」が永遠の安息への誘いを表していようとは思いもよらなかった。前奏のピアノは菩提樹のさざめきだ。

大方の理解にしたがえば、故郷へのいざない、安らぎへのいざないということになろうが、それは誤解であり、たとえ悪意のない美しき誤解であっても、誤解は誤解である。菩提樹のさざめきがいざなう先は、永遠の安息であり、より即物的に言うなら首吊り自殺なのである。一つだけ根拠を挙げておこう。「小枝がさざめいた」で用いられる動詞はrauschenだが、第八曲「かえりみ」の追憶の場面にも現れるように、この動詞は小川や水路が流れる音にも用いられる。……これが文学史上のトポス「水の精」(メルジーネ、ウンディーネ等々)に連なることは言うまでもない。こころよい流れのさざめきは、つねに「水底にこそ変わることのない誠がある」と人を死へいざなうのである。……流れは凍てつき静まりかえっているから(第七曲「流れの上で」)、主人公を死にいざなうのは、水のさざめきではなく、小枝のさざめきとなる。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)

最初、菩提樹が首吊り自殺を誘っているとはにわかには信じられなかった。しかし、この本の第21曲「宿」のところに挙げられているミュラーの「同志」と題する詩を読んだとき、ありうると思うようになった。この詩では「緑の花環」という居酒屋で二人の旅人が落ち合い、故郷にいる恋人を祝してグラスを傾ける。この「緑の花環」は墓に手向けられるものとして死や墓の象徴であることがわかると、この詩は楽しい一時が一転して生前を振り返る幽霊の会話となってしまうのである。

ミュラーの「菩提樹」は表面上は穏やかだが、このように隠喩をたどるととても恐ろしい解釈となる。帽子を吹き飛ばされて頭や首があらわになるのも、この解釈の有力な手がかりとなる。ミュラーの詩はかつてシューベルトのおかげで今日まで残ったと評価が低かったが、隠喩を考えていくとかなり奥が深い。現在ではかなり再評価されているようだ。

しかし、シューベルトは本当にそこまで意識して音楽を作ったのであろうか。いくら聴いても、死へと誘う、おぞましい菩提樹のさざめきには聴こえないのだ。むしろ自分が過ごしてきた旧世界、かつてインサイダーであった世界、村社会を菩提樹は象徴し、かつての秩序に守られた安楽な日々を思い出しているように聴こえる。菩提樹のさざめきは、アウトサイダーになることのためらい、躊躇を表しているのではないか。短調で歌われる現在の自分の姿は、想い出の菩提樹が後ろ髪を引こうとも、帽子を吹き飛ばされようとも、振り返らずに旧世界を出て行こうとする強い意志を感じるのだ。それはまた、ウィーン会議後の反自由主義の時代の不自由さをうたっているのかもしれない。

Margaret Price (soprano) Thomas Dewey (piano) rec.1997 Forlane 16769

 

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5 菩提樹の誘い②「冬の旅」 (2007/5/29)

三宅氏は次のように続ける。

後者(『美しき水車小屋の娘』)が前者(『冬の旅』)の続編であることを仮定するならば、『冬の旅』の主人公は『美しき水車小屋の娘』という過去を背負って旅に出たことになる。もちろん、その過去とは失恋ではなく、小川のさざめきに呪縛された「自殺(未遂)」であり、それが彼のトラウマ(精神的外傷)となっているのだろう。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)

これにはまたびっくりした。なるほど、「水車小屋」の最後「小川の子守歌」で主人公は小川に身を投げる。これが未遂となって「冬の旅」に続くと考える。自殺未遂が村にいられなくなった理由で、夜に人目を忍んで村を出て行く理由であり、人の通らない道を行く理由である。つじつまが合う。

しかし私はこれにも疑問を持った。「美しい水車小屋の娘」は一つの物語として完全に完結している。はたして続編を続けるであろうか。ミュラーのことをもっと知りたい所以である。

『冬の旅』の主人公はトラウマを負っている。彼は追憶の中でのみ人生は甘美になりうるという了解のもとに「菩提樹」で美しい夢をみるが、はからずもそれが傷口を広げる結果となった。しかし、彼は死に向けた行動が過去のものであったことに気づき、再び美しい追憶にひたってゆく……こうした一種の「精神治療」のプロセスを暗示することによって、シューベルトは無意識のうちにロマン主義を突き抜け、モデルネ(近代)の領域へと足を踏み入れたのである。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)

私が「精神治療」のプロセスを感じるのは「菩提樹」よりも、意図を持って歌われた第21曲「宿」だ。精神治療になるには現実が変わる、あるいは現実の意味が変わる必要がある。「菩提樹」では振り返るだけで、現実の主人公の心は変わらない。追憶だけでは治癒とはならないだろう。

Puryshinskajaのピアノは本当に美しい。Bernhard Berchtold (tenner) Irina Puryshinskaja (piano) rec.2006 Edition Klavier-Festival Vol.12 553029

 

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6 革命歌「冬の旅」(2007/5/30)

18曲「嵐の朝」

ミュラーが際立って政治的な人間であったとはいえないが、ウィーン会議後の反体制下にあって、知識人たちが検閲と密告による「墓場のような平和」のなかで「嵐=革命の時代」を懐かしむ……『冬の旅』の主人公が第十二曲「孤独」で「ああ、大気はこんなに穏やかだ!/ああ、世の中はこんなに明るい!/[だが]嵐が吹きすさんでいたときでも/こんなに惨めではなかったのに」と独白していることを思い起こすとよいだろう。

……行進曲ふうの楽想からも明らかなように、シューベルトは当時の「男声合唱」曲のスタイルをここで援用しているのだ(第二二曲「勇気を」も同じ)。政治集会が禁止されていた社会にあって、地域ごとの男声合唱の集いがどのような意味を持っていたかは推して知るべし。そこでは口角泡を飛ばす政治談議が行われ、さらに団結を強めるために行進曲ふうの愛国歌がうたわれていた。

第22曲「勇気を」

すでに第一八曲「嵐の朝」で、われわれはシューベルトがフォアメルツ(三月革命前)の「男声合唱」のスタイルを援用した例を知っている。

……ミュラーとシューベルトは、男声合唱という卑近なモデルを援用した。おそらく以前は集団に属していた主人公(第一二曲「孤独」の「ちぎれ雲」)は、みずからの弱さを克服し、みずからを鼓舞するために高揚を重ねてゆくように、音楽も第Ⅲ詩節に入ると合唱(ピアノ声部)の音高線の急激な上昇、突撃喇叭のリズム、そして強引な変ロ長調への転調などによって、めくるめくような様相を呈してくる。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)

ミュラーの詩にシューベルトは男声合唱の革命歌風の曲をつけた。本当に三宅氏の指摘は興味深い。

Bernhard Berchtold (tenner) Irina Puryshinskaja (piano) rec.2006 Edition Klavier-Festival Vol.12 553029

 

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7 永遠のユダヤ人「冬の旅」(2007/6/2)

「冬の旅」作者、ヴィルヘルム・ミュラーは、「永遠のユダヤ人」と題する詩を作っているそうだ。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)この詩を読んでまたショックを受けた。(第20曲「道しるべ」の項)「冬の旅」の主人公は「永遠のユダヤ人」にそっくりではないか。もしイコールだとすると、全く希望も救いもないことになる。

永遠にアウトサイダー、救われることなく、死ぬこともできない、安息はどこにもないまま、さすらい続けなければならない。人を救う宗教が、どうしてこのような人物を作るのだろうか。神に逆らうようなことをするとこのようになる、このような人になってもよいのかという見せしめのためか。

伝説上の「永遠のユダヤ人」は、ゴルゴタの丘に向かうキリストが自分の店の前で休むことを拒否し、そのために永遠に世界を放浪せねばならない呪いを受けた。……両者(「永遠のユダヤ人」と「冬の旅」)は驚くほど酷似している。そしてさらに、この共通性は『冬の旅』が始まる前に、主人公に取り返しのつかない何かが起きたことをも示唆している。その「何か」とは、もちろん一般に信じられている「失恋」ではなく、『美しき水車小屋の娘』の最後の詩「小川の子守歌」が示すように「自殺(未遂)」と考えるべきだろう。

三宅氏はさらに、第14曲「霜おく髪」で主人公の髪の霜がとけると、黒髪が現れたとあることからも、黒髪、黒目のユダヤ人の特徴を見て取るのである。アウトサイダーの宿命を背負うものには、永遠に救いはないのだ!!しかし、そのように解釈された暗黒の「冬の旅」は私にはまっぴらご免だ。

Zeger Vandersteene (tenor) Levente Kende (piano) rec.1989? RENE GAILY CD 87 038

 

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8 三つの太陽 「冬の旅」(2007/6/6)

再び、第23曲「幻の太陽」の三つの太陽を考える。三つの太陽とは何か。二つの説があった。最近は恋人の眼が一番しっくりくるのではないかと思っていた。

三宅氏はキリスト教の三つの徳「信仰・愛・希望」説を説く。最初の二つが信仰と愛で、三つ目が希望というのは苦しい説明だ。「冬の旅」の最初から希望などないように思われる。三宅氏は、「これまで『冬の旅』で恋人の眼について一度も言及がなかったことを考えると、やはり唐突の感は否めない。」として「恋人の眼」説に異を唱えているが、第八曲「かえりみ」の第四節で「恋人の眼」について歌っている。そして、ミュラーの詩の並べ方をみると、この「幻の太陽」の次に「春の夢」が続いている。ここで恋人のことがでてきてもおかしくはない。燃えるような恋人の二つの眼のほうがしっくりくるように思われる。

しかし、多層的な意味も含まれているのだろう。ミュラーは子供のころ熱心なキリスト教信者の両親のもとで育てられ、自身も使徒書簡や福音書を読んでいたとあるから、「信仰・愛・希望」とみてもおかしくはない。

また、ブリュッセル時代には「ソネット2」という詩の中でキリスト教からの離反が明言されているという。(「『冬の旅」の根底にあるもの」渡辺美奈子著 ゲーテ年鑑第48巻 日本ゲーテ協会 2006)

もう一つ、「冬の旅」を、自由主義者が厳しく弾圧された冬の時代への批判の歌とみると、また見方が変わってくる。この「三つの太陽」をフランス革命が掲げた近代民主主義の原理、「自由・平等・博愛」とみるのもおもしろい。まずはウィーン体制、カールスバート決議でこれら三つの太陽は沈んでしまった。「冬の旅」の主人公はアウトサイダーとして共同体を去り、改めてこの中の「自由」を取り戻すのだ。沈んだ二つの太陽は「平等」と「博愛=愛」、残りの一つはアウトサイダーとしての恐ろしいほどの「自由」だ。

愛国心に燃えて対ナポレオン戦争に参戦したミュラー。ギリシア独立戦争を支援して「ギリシア人の歌」を著したミュラー。ドイツ学生組合ブルシェンシャフトと関係の深いヤーンを尊敬していたたミュラー。カールスバート決議に抵抗したアーノルト・ブロックハウスと親密な関係が続いていたミュラー。ブロックハウス社の雑誌「ウラーニア」に「冬の旅」12編が掲載されたのも興味深い。愛国主義・自由主義思想をもっていたであろうミュラーは、自由主義弾圧という厳しい「冬の時代」を隠喩という手段で批判したという考えはありそうではないか。

もし、「冬の旅」がそのような政治的性格を持っているとするなら少しほっとする「冬の旅」の極限状況は客観化され、絶望の時代への克服が希望として現れ、個人の疎外状況は奈落に落ちずにすむのだ。

「三つの太陽」に結論は出ない。多層的で興味が尽きない。

クルト・モルとコルト・ガーベンの「冬の旅」は好きだ。特に「春の夢」がいい。夢の中に漂っているようだ、美しい憧れを夢見ているようだ。夢の中にいてなかなか覚めないピアノがまたいいのだ。

Kurt Moll (bass) Cord Garben (piano) rec.1982 ORFEO C 042 832 H

 

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9 ヴィルヘルム・ミュラー②「冬の旅」 (2007/6/8)

ゲーテ年鑑第48巻の渡辺美奈子氏の「『冬の旅』の根底にあるもの」をやっと読むことができた。地元の図書館にはなく、行き違いもあり、なんとか大学図書館に連絡を取ってもらったのだが、大学図書館に行く予定の日に、例の麻疹騒動で閉館してしまった。開館後連絡を取ってやっと読むことができた。

渡辺氏によると「冬の旅」は「絶望」と「諦観」が根底にあり、ミュラーの実体験が反映しているとしている。

ミュラーの実体験が「冬の旅」に反映されたと思われるものは、1814年の恋愛事件と1816年の失恋だ。1814年は20歳のミュラーが反ナポレオン戦争に参加し、ブリュッセルで恋に落ち、軍から追放された年である。このころの手紙には「多くの涙を流さざるをえなかった」「子供から老人へ、あるいは老人から子供になった」(「菩提樹はさざめく」)とあるから、相当つらい経験をしたようだ。日記には「官能的なものや無神論の時間の残滓」(「『冬の旅」の根底にあるもの」)とあり、官能的、情熱的な恋であったと推測される。

その後ベルリンに帰り、友人の妹ルイーゼに恋をする。当時ミュラーはミンネザングの研究をしていて、「古いドイツ」にあこがれていた。ミンネは、中世の騎士が身分の高い女性に対して抱く、高潔で達成しない愛(広辞苑)である。中世の騎士の抱く、ロマンチック・ラヴを理想とし、ルイーゼに対して今度は官能的でない、高貴な愛を持って接していたようだ。

そもそも、ロマンチック・ラヴの背後には、神との合一を目指す気持ちがある。したがって、もともとはそれを永久に求めていくためには、両者は性関係をもってはならないという掟があった。この掟を守ってこそその関係が永続する。このような考えが後になって、愛し合う二人が結婚することこそすばらしい、という世俗化されたものになってきたのだが、その永続性が難しいことは、すでに述べてきたとおりである。(「おはなしの知恵」河合隼雄著 朝日出版社 2000)グリム兄弟もこのロマンチック・ラヴを賞揚する考えから昔話を相当に改変したという。

ミュラーが欲望を抑えるのに苦しんだことが日記に繰り返し証言している(「菩提樹はさざめく」)とある。その恋も恋敵の出現で1816年(22歳)に終わったようだ。「おやすみ、ルイーゼ」と日記に何度も書かれているというのは、第一曲「おやすみ」と重なって印象的だ。

翌年に書かれた「ふたつの星」という詩では、愛し合う二人の至福の目と星を関連づけているという。また、ローマで書かれた詩「孤独な男」では、月の光を目にたとえて、さすらう人が愛する女性の目を探す情景を描いたとあるし、「夜」という詩では少女の目を天体にたとえているという。このことから「冬の旅」第23曲「まぼろしの太陽」の沈んだ二つの太陽は、やはり恋人の眼という解釈が一番ふさわしいように思われる。

Harry Heraerts (tenor) Ludger Remy (hammerflugel) rec.1990 MDG MD+G L3391

 

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10 ヴィルヘルム・ミュラー③「冬の旅」 (2007/6/9)

渡辺美奈子氏の「『冬の旅』の根底にあるもの」(ゲーテ年鑑第48巻 日本ゲーテ協会 2006)を読んで改めて気づかされたのは、ミュラーが「冬の旅」を書き始めた1821年がギリシア独立戦争の勃発の年だということだ。この年、ミュラーの自由主義思想がうかがえる「ギリシア人の歌」第一巻が出版された。そのほんの2年前にカールスバート決議がなされ、自由主義思想への弾圧が厳しくなったばかりだ。

また、「冬の旅」を書き始めたこの年にミュラーは結婚している。翌年、翌々年と続けて娘、息子を授かって、まさに幸せの絶頂にあるはずなのに、気のめいるような「冬の旅」が書かれているのだ。

それともミュラー夫妻は最初から仲が悪かったのだろうか。結婚はこんなはずじゃなかったというこになれば、「冬の旅」の雰囲気になるのだが、日記にはどう書かれているのだろう。

これらのことから、「冬の旅」は政治批判の性格がとても強いのではないかと思った。しかも「ウラーニア」の出版社はカールスバート決議に抵抗したブロックハウス社だ。1822年の「新ギリシア人の歌第3巻」が出版禁止、出版された詩も一部削除されたとある。

「アトリの別れ」は、検閲によって書き換えさせられた詩で、よく取り上げられるそうだ。アトリという鳥が歌い続けていたのに、厳しい冬がやってきて、霜と雪を投げつけたという内容。アトリが自由主義者、冬が復古政治を象徴しているという。

年表の続きを再掲する。

1818年(24歳)

8月ローマを発ち、デッサウに帰郷。「祖国は霜と雪と霧で、私を迎えてくれた。それだけなら、まだ耐えられるのだが、あの俗物根性ときたら…」と幻滅。

1819年(25歳)

旅行から学術的な成果もあげられず、大学から学位を得たわけでもなかったためベルリンで職を得られなかった。故郷デッサウでラテン語、ギリシア語、歴史、地理の助教員となる。アンハルト公爵の図書館でも働く。国民主義・自由主義を弾圧するカールスバード決議がなされる。

1820年(26歳)

アンハルト公爵の図書館の正式な司書になり、執筆活動の時間を持てるようになる。雑誌「アスカニア」創刊、さまざまな執筆活動を行うようになる。父が他界。『ローマ、ローマ男たち、ローマ女たち』を出し、幅広い読者層を獲得。〔この春の詩は冬に読むべし〕と断り書きのついた『美しき水車小屋の娘』が含まれる最初の詩集『旅するヴァルトホルン吹きの遺稿から七十七の詩/第一冊』出版。(カール・マリア・フォン・ヴェーバーに献呈)

1821年(27歳)

『ギリシア人の歌』第一巻を出版、有名人になる。ギリシア独立運動とトルコに対する解放戦争を支持、同時にドイツの現状に批判。『ギリシア人の歌』六巻(1821~24)により、「ギリシアのミュラー」と呼ばれることになる。5月、教育者の家系のバーゼド家のアーデルハイトと結婚、社会階層を一段登る。暮れ「冬の旅」前編12篇を作る。

1822年(28歳)

この年の初め、雑誌『ウラニア』に『冬の旅』前編12篇を送る。娘アウグステ生まれる。十巻からなる『一七世紀ドイツの詩人双書』の編纂が始まり、バイロンの著作の研究も始まる。

1823年(29歳)

息子フリードリヒ・マックス生まれる。さまざまな文学者との接触を計る小旅行。雑誌『ウラニア』で『冬の旅』前編12篇発表。さらに文芸雑誌『詩、文学、美術、演劇のためのドイツ新聞』に『冬の旅』後編の10篇の詩を発表。

1824年(30歳)

宮廷顧問官に任命される。『郵便馬車』と『まぼろし』の二篇を加え、全二十四篇の『冬の旅』を含む『旅するヴァルトホルン吹きの遺稿からの詩/生と愛の歌』第二冊出版。『ホメロス入門』上梓。

1825年(31歳)

翻訳『現代ギリシア語による民謡』編纂。ベルリン、リューゲン島、ドレースデンを訪れ、メンデスルゾーン、ティークと交流。

826年(32歳)

この年から病気がちになり、重い百日咳で療養。療養からの帰り、バイロイト、ニュルンベルク、バンベルク、ヴァイマルを訪れ、ゲーテと対話する。デッサウの劇場で演劇の演出。

1827年(32歳)

詩集『抒情的な旅行と寸鉄詩ふうの散歩』、小説『十三番目の男』を出す。7~8月にライン旅行、ボンでシュレーゲル、ヴァインスベルクでケルナー、ウーラント、そして後にミュラー作品集の編者となるグスタフ・シュヴァープと会う。デッサウに戻り、著作を続行するが、10月1日脳卒中で他界、33歳の誕生日前だった。

渡辺氏は次のようなミュラーの隠喩や象徴を挙げている。

 少女……革命の理想、官能的な愛の対象、精神的な愛の対象、俗物主義の批判対象

 結婚……理想の制度化

 犬たち……監視官や検閲官

 菩提樹……愛と性愛、守護と墓場を象徴

 彼ら(2)・(村の)人間(13)……政治的抑圧下の時流に迎合する俗物的な人間

 鬼火・カラス・氷・嵐・日没……死

またミュラーの詩の特徴として、「春の夢」のように夢と現実というような二項対立的表現と、正‐反‐合という弁証法的構成を持っているものが多いとしている。

最後にシューベルトの友人で詩人のマイルホーファーが、自由主義思想を持ちながら、生活のために検閲官として働き、検閲局の建物から投身自殺したという記述にショックを受けた。ミュラーのイロニーをシューベルトは身を切るような音楽で表現し、苦しいほど感動したとマイルホーファーは「冬の旅」について書いているという。「冬の旅」を生き、自己疎外・絶望という暗黒の世界から自殺という解決を選んだ。

「『冬の旅』の根底にあるもの」を読んでさらに疑問を持った。1814年、ちょうど軍隊から追放された年に書かれた「美しい水車小屋の娘」とその事件との関連や「冬の旅」の関連について。ミュラーと「旅するヴァルトホルン吹きの遺稿」をささげた相手のウェーバーとの関係はどうだったのか。さらに、「冬の旅」後半12編をミュラーは前半の後にそのまま加えなかったが、どのような意図を持ってあのような配置にしたのか。

ますます興味が尽きない。

Paul Sperry (tenor) Ian Hobson (piano) rec.2000 Zephyr Z126-04 made in Canada