シューベルトの「冬の旅」についての記録3。「冬の旅」についてさまざまな解釈があって興味が尽きない。もう忘れてしまっていたことを思い出す。
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11 アパシーからの脱出①「冬の旅」(2007/6/12)
第21曲「宿」を、ナタリー・シュトゥッツマンとインゲル・ゼデルグレンで聴いたとき、非常な衝撃を受けた。ここに無気力感(アパシー)を脱する光があると思ったのだ。そしてその思いは今でも変わらない。
宿屋つまり死を拒まれるとはいったいどういうことなのかと思っていたが、三宅氏の説明で納得した。
おそらく、ここは町ないし村はずれの墓地だろう。この詩を読むかぎり、主人公が目にする光景に人影はない。荒涼とした冬の墓地に緑の葬儀の花環がひとつ彩りを添えている。つい最近、この地の住民が墓地に葬られたのだろう。主人公は墓地に安息を求めたが、素性の知れない「さすらい人」たる彼が、この地の住民のための墓地に入ることなど許されない。十九世紀に入っても共同体の墓地に見知らぬ放浪者が葬られることはなかったし、たとえ住民であっても、たとえばオペラ歌手のように風紀を乱しがちな人間が共同体の墓地に入ることは許されなかった。みずから社会からドロップ・アウトした主人公も、当然のことながらこの墓地に入る資格はない。いってみれば不可能なことを夢みた主人公に、動かしがたい現実が突きつけられたというわけだ。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)
そして、死を象徴するダクテュロス(長短短)のリズムだということも知った。
シュトゥッツマンの歌を聴いて、魂の再生を思った。つまり、今までの後ろ向きだった思いが死に、運命を生きようとする積極的な思いが生まれる転換があるのだ。
「菩提樹はさざめく」を読んで、その転換点についての記述があったことに驚いた。
注目に値するのは(第4節の)第二行「それでも僕を拒むのか」の「僕をmich」に当てられた増三和音だろう。和声的にみれば変イ長調の属七和音から主和音への進行が確保されているのに、よりによって増三和音が挿入されているのは、何か意味があるとしか思えない。ヴォルフガング・フーフシュミットは、この増三和音を構成する小文字のロ音がここにしか現れず、しかも小文字のロ音がこの曲の音域の中央に位置していることから、この個所を「転換点Wendepunkt」として解釈している。……主人公はこの箇所で、みずからに定められた運命を最終的に受け入れる。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)
さらに、この「宿」の終わり方に3つのパターンがあるのに気づいた。
ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト)インゲル・ゼデルグレン(ピアノ)rec.2003 キング KKCC4391、CALLIOPE CAL 9339
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12 アパシーからの脱出②「冬の旅」 (2007/6/13)
「冬の旅」をいろいろ聴いてゆくと第21曲「宿」の終わり方に3つのパターンがあるのに気づく。この3つだ。
① 歌が弱まり、ピアノも弱まって終わる。
② 歌は力強く終わり、ピアノは弱まって終わる。
③ 歌が力強く終わり、ピアノもそれほど弱まらずそのまま最後の音を明確に打鍵して終わる。
シュトゥッツマンの演奏はこの③にあたる。
①のように歌もピアノも弱まって終わると、死ぬこともできず、生きる屍として永遠に苦しみ続けなければならない運命を感じる。まさに「永遠のユダヤ人」同様に、死にも拒絶されて生き続けなければならない哀れさが、弱まることによって感じられる。歌が弱まることは、そのことを主人公自身も自覚していることを表し、救いはない。このパターンはオーソドックスなものなのであろうか、三宅氏もこのパターンを想定してだろう、こう言う。
この曲では主人公は死を願い、それを冷たく拒絶され、さらに旅を続けることになった。歌唱声部はそのプロセスを反映して大きく揺れ動き、リトルネッロの響きも変容した。しかしその後に来るピアノ後奏の文字通りの反復は、あたかも何事もなかったかのよう。この後奏を聴くにつけても、主人公が共同体はもとより「神よ、憐れみたまえ」からも疎外されているように思えるのである。(「菩提樹はさざめく」三宅幸夫著 春秋社 2004)
ホッター&ムーア、ロッテ・レーマン&ウラノフスキー、プレガルディエン&シュタイアー、モル&ガーベン、フィッシャー=ディスカウ&ブレンデルなどなど。
②のパターンは①と同様に暗い解釈だ。歌を強めて終わることによって主人公は希望を持つが、ピアノの後奏が弱まることでその希望が本物でないことを表し、「可哀想に…」と聴こえるのだ。フィッシャー=ディスカウ&ペライア盤など。
しかし、③のように歌もピアノもそれほど弱まらずに終わると、希望が持続する。第23曲「幻の太陽」や終曲「辻音楽師」を考えるとその希望は、当然すべてを解決するというようなものではない。主人公はこれからも勇気を持ったり、また落ち込んで涙をこぼしたり、夢を見、怒り、死を思い、そしてかすかな希望を持つといった様々な内省を繰り返すに違いない。「冬の旅」が一貫した物語性がないことを考えると、旅立ちの第1曲を除く「冬の旅」23曲を繰り返しながら、さらに旅を続けるといってもいいのではないかと思う。
この重い「冬の旅」の中にあって、終わりの強まる「宿」を聴くと、感動の電気が背筋を走る。この「宿」が好きだ。
Berchtold は26小節目、上の楽譜のちょうど真ん中の「旅の杖 Wanderstab! 」をクレッシェンドして歌う。これはしっかりした希望を抱かせる歌い方だ。自己を深く見つめ、究極(死の覚悟)に達したとき、はじめて次の扉が開く、そのように聴いた。シュトゥッツマン&ゼデルグレン、ベルチトルド&プリシンスカヤ、スピリー&ホブソン、ヴァイクル&ドイチュなど
それにしてもいったいシューベルトはどれを想定して作曲したのだろうか。それは永遠にわからないが、それでも光がほしい。
Bernhard Berchtold (tenner) Irina Puryshinskaja (piano) rec.2006 Edition Klavier-Festival Vol.12 553029
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13 アウトサイダーに救いはあるか「冬の旅」 (2007/6/14)
「冬の旅」の政治批判的解釈に今回初めて気づかされた。
その視点から見ると、主人公は弾圧された自由主義者だ。反動社会の中にあって、その思想を隠さなくてはならない。厳しい冬の時代。アウトサイダーにはやはり救いはない。無気力な音を奏でる「辻音楽師」のように、無気力状態に慣れることしかない。さもなければ宗教に向かうか、無茶苦茶をやるか、死を選ぶか、だろう。
先日、テレビを見ていたら100年後の天気予報というのをやっていた。5月か6月か忘れたが、平均気温が東京で29度でしょう、という。100年後、今より良くなっているとは到底思えない。温暖化、新種のウィルスの出現、砂漠化、海の汚染、光化学スモッグや大気汚染、紫外線、食料とエネルギーの不足。外を出歩くには酸素マスクが必要になっているかもしれない。地球規模の破壊は個人の力では防ぎようがない。争いも絶えないだろう。希望が見えないのは「冬の旅」の主人公と同じだ。
精神世界に眼を向ける。河合隼雄氏は言う。(「河合隼雄 こころの処方箋を求めて」文藝別冊 河出書房新社 2001)
人間はいろいろなものによって、その存在を支えられている。たとえば家族はその中の重要なひとつである。あるいは、自分の職業、出身地、特別な才能などなど、いろいろとある。しかし、それらの支えを突然に失ったり、それらの支えとしての意味に強い疑念がわいてきたりする。そんなときに人間は不安になる。
ところが、自分の支えを失うことなく、そのなかで生きている人は、特に生きることという現実にとらわれているときは、苦しくはあっても、不安に襲われることはない。しかし、現在のように飽食の時代になると、若者たちは、生きることにそれほどあくせくすることもない。
これは恵まれているように見えるが、ふと気がつくと自分の支えになるものがないと感じられたり、すべて無意味にみえてきたりする。「お金」なぞそれほど大切ではない。家族などいてもいなくてのもかまわない。
このように考えはじめると、この世のものはすべて空しくもなってきて、自分の生を支えているものがないことに、はっと気づく。こんなとき、人間は根源的な不安に襲われるのだ。自殺をする人もある。自殺をする元気もない、まったくの無気力になる若者もある。このような人に、生きることは楽しいとか、意味があるなどといくら説教しても効き目がない。
ここで宗教の役割を論ずるが、現在の日本の宗教的基盤の崩壊を指摘する。
(日本では)宗教が日常生活と密接にからみ合っているために、最近における日常生活の急激な変化によって、日本人の宗教や倫理の根本がゆるがされているのである。「もったいない」ということが通じない日常生活は、日本人にとっては大変なことなのだ。日本人として鍛えてこられた美意識の多くは、物が豊かでないことを基礎にしてきたものである。簡素の美が尊ばれてきたのに、日常生活は簡素とはほど遠くなっている。「和」の維持のために「辛抱する」ことを美徳としてきたのに、子供たちは、ほとんど辛抱などせずに日常生活をしている。
現在における、日本の多くの青少年の問題の背後には、日本のこれまで無意識に維持してきた宗教観や倫理観が壊されつつあるという問題がある。
しかし特定宗教の集団化による組織化、組織防衛による世俗化を考えると、個人としての宗教性を深めることが良いのではないかと言う。そしてこの宗教性を深めるのを助けるものとして、古くからの神話を挙げる。
「冬の旅」の主人公は、「旅の杖」の助けを借りて再び立ち上がる。「旅の杖」は、冬の時代における「自由主義思想」であったのかもしれない。現代を冬の時代と捉え、それを生きる者にとっての「旅の杖」は何であろうか。
一連の「冬の旅」の鑑賞を終える。
ベルント・ヴァイクル(バリトン)ヘルムート・ドイチュ(ピアノ) rec.1993NIGHTINGALE NC070960-2
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14 絶望を生きる者への旅の杖「冬の旅~1.おやすみ」(2008/1/19)
「ぼくはこれまでのどんなリートよりもこれらの曲が気に入っている。きみたちもいずれ好きになるよ。」
友人たちに初めて「冬の旅」第一部を歌って聴かせ、その陰鬱な雰囲気に友人たちが茫然自失になったとき、シューベルトはこう言ったそうだ。
渡辺美奈子氏は、「冬の旅」が未解決に終わり、死ぬことも、希望を持って生きることもできない諦念の状況で終わり、それが愛に対するものでも、社会に対するものでも、「絶望」と「諦念」が「冬の旅」を支える根底であると言っている。
「冬の旅」は、愛を失い人間不信に陥った人間の物語である。そしてまた、社会から疎外され自分をも疎外する人間の物語でもある。不治の病にかかったシューベルトにとっては、絶望を生きる者の物語と捕らえたかもしれない。どちらにせよ「絶望」と「諦め」が曲全体を覆っている。
自我を確立し、社会的地位を得、家族を築いた後にやってくる転換点がある。若いうちは上昇志向で生きてきた態度が、「老い」や「死」に向かって方向転換するとき、中年の危機が訪れる。「老い」や「死」に誰もが直面しなければならない。誰も避けることはできない。それゆえ、「冬の旅」を歌うのはもちろん、聴いてそのメッセージを受け取るには、ある程度の年齢、あるいは熟成が必要なのだ。
梅津時比古氏の『冬の旅 24の象徴の森へ』を読んでいる。
やはり救いはない。
ハーディー・ガーディを弾く老人を心の友として、この生を生きなければならない。同じ「絶望」「諦念」を生きぬく先達として。これこそ頼れる「旅の杖」ではないか。
第一曲目「おやすみ」は、暗く重いあのピアノのリズムで始まる。
雪が深々と降る、暗く重苦しい、凍てつくような寒い冬の夜心は重く、足取りも重たいこの世は真っ暗だ何より印象に残るのは、その歌い始めだ。詩の始まり二行でこの詩の性格が表される。
よそ者
どこかその地域社会になじめない、心から話し信頼できる友を見出せなかった考え方が違う、感じ方が違う、価値観が違う愛した娘は金持ちの男を選んだ
人間不信
孤独
Cristoph Prégardien (tenor) Andreas Staier (fortepiano)
ミュラーは1922年、検閲で「ギリシャ人の歌第3巻」の出版を禁止されている。「アトリの別れ」という詩では、アトリという鳥を自由主義、冬を復古主義の政治に象徴として使っているそうだ。さらに検閲によって批判的な言葉を別の言葉に置き換えて、象徴として使っている。
「冬の旅」が社会批判を詠ったものとも考えられる所以だ。さしずめ、うるさく吠える犬どもは、この検閲官か。そして出て行くこの共同体や暗闇は、自由主義を弾圧する社会を表しているのか。心変わりする娘や母親は、日和見主義の小市民か。
参考
①ゲーテ年鑑第48巻の渡辺美奈子氏の「『冬の旅』の根底にあるもの」(2006)
②Peter Pears (tenor) BenjaminBritten (piano) rec.1963 DECCA 417 473-2
③「河合隼雄を読む」(講談社編 1998)
④「快読シェイクスピア」(河合隼雄 松岡和子著 新潮社 1999)
⑤「シューベルト」(喜多尾道冬著 朝日新聞社 1997)
⑥「冬の旅 24の象徴の森へ」(梅津時比古著 東京書籍 2007)
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15 ヴィルヘルム・ミュラーの日記「冬の旅~2.風見鶏」 (2008/2/1)
人の心はコロコロ変わる。恋人も、その母親も。風がふっと吹いて、くるっと回る。そういうもの。この詩でも失恋問題から、めまぐるしく変わる人間の心へと私は一般化してしまう。できるだけ誠実に、誠意を尽くして生きたいものだ。
ピアノの低い音のトリルが、風でカラカラ回る風見鶏を連想させる。若者は恋人とその親に憤りをぶつける。第2曲目で親方の家を飛び出た直後だから、まだ怒る気力がある。
第二連は三人称になっている。これは過去の自分を表すためだろうか。それとも第三者、語り手が言った言葉だろうか。風が言っているのか。
最後の連で「彼女は」という代わりに「彼らは」「彼らの子供」としているところに、恋人対自分ではなく、共同体対自分あるいは上位階層対下位階層として見ていることが感じられる。詩人ミュラーにとっては、かつては自由主義をもてはやした社会一般の人々の変貌振りを嘆いているのだろうか。
梅津時比古氏は「冬の旅 24の象徴の森」の中で、詩人ヴィルヘルム・ミュラーの1815年10月7日から1816年12月15日までの日記について述べている。1814年の軍隊からの逃避行のことはふれられていなく、その後のルイーゼとの失恋問題から影響を受けたのだろうとしている。ルイーゼはミュラーから年上のブレンターノに心が移っていったようだ。その5年後の1821年に「冬の旅」が書かれており、結婚、第一子誕生という幸せであろうと思われるときに書かれているのは本当に不思議だ。ルイーゼは一生独身ですごしたということも何か考えさせられる。
最後の曲「辻音楽師」をいくら聴いても、やはり明るい展望を感じることは出来ない。死ぬことも出来ず、諦めて乞食の様な辻音楽師と旅でもしようかと終わる。永遠のユダヤ人のように、生きも死にもしない状態で終わるのだ。誰も示さなかった真実を語る、全く恐ろしい音楽だと思う。
参考
①「冬の旅 24の象徴の森へ」(梅津時比古著 東京書籍 2007)
②Florian Prey (bariton) Rico Gulda (piano) rec.2006 Orplid LC 01267
二人とも偉大な父親を持つ二世。父親譲りの優しい声。ピアノはあまり印象に残らなかった。
「宿」では敢えて共同体や宗教からの離脱を宣言するように最後を強めて終わった。
③ゲーテ年鑑第48巻の渡辺美奈子氏の「『冬の旅』の根底にあるもの」(2006)
④「菩提樹はさざめく」(三宅幸夫著 春秋社 2004)
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16 「冬の旅」が表現しようとしているもの (2008/2/27)
「冬の旅 24の象徴の森へ」を読んで、改めて「冬の旅」に関心を持った。果たして「冬の旅」に「最後には新しい人生への希望が垣間見える」のか。「光を確信させるヒューマンな励まし」はどこに秘められているのか。若者はどんな「生きる意味」を見出したのか。
「冬の旅 24の象徴の森へ」を読み通して、最後の章で解答が得られるのかと期待していた。哲学書の難解な文章に接して、何かはぐらかされたような、消化不良の感を禁じえない。例えば「冬の旅 24の象徴の森へ」にこうある。
『冬の旅』は、神、啓蒙思想、革命すべてを否定することによってニヒリズムの旅であったが、破壊されるのではなく読み直しをされることによって、価値転換が求められる旅となった。それは具体的には内的亡命の旅とも言えるだろう。(P.348)
読み直しを「される」、価値転換が「求められる」、「内的亡命」が良くわからない。『冬の旅』は、神、啓蒙思想、革命すべてを否定、破壊するのではなく、読み直しをすることによって、価値転換をする旅となった。」ということなのであろうか。
「読み直し」とは別の視点から対象を捉えるということだろう。では、どんな価値転換であるのか。世の中を肯定する価値転換なのであろうか。ニヒリズムは、他者の提示によって克服されたのであろうか。わからない…
読者は哲学書に読み慣れた人より、普通の音楽愛好家が圧倒的に多いはず。回りくどい難解な言葉は「読み直し」されて分かり易い言葉で語ってほしかった。こうして「冬の旅 24の象徴の森へ」は、私の「冬の旅」への解答には期待はずれとなった。
また、「菩提樹」は主人公を死へと誘うものであると「菩提樹はさざめく」にも書いてあった。首吊り自殺を誘うと。ミュラーの詩にはどうもその意味が含まれているようだ。
しかし、私にはどうしてもシューベルトがつけた音楽に"死の匂い"が感じられないのだ。これはどうしたことか。ミュラーの詩を読んだシューベルトは、「菩提樹」を"死への誘い"とは表現しなかったのではないか。つまり詩人と作曲家の表現するものが微妙に違うのではないかと思うのである。
最初、私はミュラーとシューベルトの微妙な違いに、ミュラーは社会批判、シューベルトは自身の不治の病から来る絶望を表現したかったのではないかと思った。だから「冬の旅」は絶望の中を生きる、恐ろしい音楽ではないかと思った。
しかしこれは違うと思うようになった。「冬の旅 24の象徴の森へ」にもあるように、シューベルトは、詩の中に自分を投げ出して、そこから現れてくるものを音楽として表現していたに違いない。詩を自分の意向で捻じ曲げて表現することはない。ここにシューベルトの「読み直し」があったのではないかと思った。
いったい「冬の旅」は、生きる意味と光を感じさせる詩と音楽なのであろうか。ライアーを回す乞食のような老人と歌を歌い、生き続けることにどんな意味があるのか。
参考
①「冬の旅 24の象徴の森へ」(梅津時比古著 東京書籍 2007)
②「菩提樹はさざめく」(三宅幸夫著 春秋社 2004)
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17 「冬の旅」ヴィルヘルム・ミュラーの詩の順序 (2008/2/28)
ヴィルヘルム・ミュラーは、「冬の旅」の前半12曲を発表した後に、後半を12曲を付け加えた。ところが単に前半に続けてそれらを置いたのではなく、詩を前半のものに混ぜて「冬の旅」を完成させた。いったいこれはどういう意図からだろう。これも疑問だった。
「冬の旅 24の象徴の森へ」には「『旅する角笛吹きの遺した紙片からの詩集』の第二巻の出版が困難になったミュラーは、後半の十二編の詩篇にあまりにも前半と異なる色合いが出るのを避けるために、これらを並び替えて混ぜ合わせ平準化した。」とある。
シューベルトは後半部をそのまま前半部につなげたが、それとミュラーの並べ替えたものを比較してみよう。
印の意味。
恋人や恋愛に関するもの…○
死や孤独、疎外に関連するもの…●
どちらともいえないもの…△
どちらともいえるもの…◎
番号はシューベルトの並びの番号とした。題名は「冬の旅 24の象徴の森へ」によった。
シューベルトの『冬の旅』
題 名 |
印 |
詩 の 内 容 |
01. Gute Nacht おやすみ |
○ |
結婚まで約束した恋人のところを去る |
02. Die Wetterfahne 風見鶏 |
○ |
心変わりした恋人は金持ちの花嫁になる |
03. Gefrorne Tranen 凍った涙 |
△ |
冷めた涙に気付く |
04. Erstarrung 凍てつく野 |
○ |
恋人と緑の野を歩いた跡を探す |
05. Der Lindenbaum 菩提樹 |
○ |
喜びも悲しみも分かち合った思い出の木の本を去る |
06. Wasserflut あふれ流れる水 |
○ |
小川が涙を運び熱くたぎる所が恋人の家だ |
07. Auf dem Flusse 河の上で |
○ |
凍った河の上で恋人の名と日付を刻む |
08. Ruckblick 振り返り |
○ |
町に来た時と恋人を振り返りもう一度恋人の家の前に立ちたい |
09. Irrlicht 鬼火 |
● |
どの道でも目的地に着く、すべては鬼火の戯れ |
10. Rast 休み |
△ |
炭焼き小屋で寝るが休まることがない |
11. Fruhlingstraum 春の夢 |
○ |
春の夢と恋人と口づけの夢を見るが雄鶏の声と共に現実に戻る |
12. Einsamkeit 孤独 |
● |
明るく楽しげな人々や情景の中を惨めに一人歩く |
|
|
|
13. Die Post 郵便馬車 |
○ |
郵便馬車のラッパの音で恋人の町を想う |
14. Der greise Kopf 白髪 |
● |
老人になって棺に入るのを願う |
15. Die Krahe カラス |
● |
付きまとうカラスに墓までついてきて餌食にしろと言う |
16. Letzte Hoffnung 最後の希み |
● |
一枚の葉に希をかけるがその葉も落ちる |
17. Im Dorfe 村で |
● |
吠える犬。村人は欲深い夢を見るが自分は夢を見つくした |
18. Der sturmische Morgen 嵐の朝 |
● |
ちぎれ雲が流れる朝焼けの嵐の空は荒れた私の心だ |
19. Tauschung 惑わし |
○ |
明るく温かい家と恋人を見せてくれる惑わしにかかりたい |
20. Der Wegweiser 道しるべ |
● |
旅人の通らない道を探し誰も帰らない道を示す道しるべに出会う |
21. Das Wirtshaus 宿屋 |
● |
墓地に休もうとするが拒まれ再び旅を続ける |
22. Mut 勇気 |
△ |
元気に歌い陽気に世の中へ行こう、神がいないなら神になろう |
23. Die Nebensonnen 幻の太陽 |
◎ |
最良の2つの太陽は沈みもう1つも沈んでしまえ |
24. Der Leiermann 辻音楽師 |
● |
誰も無視するライアー回しに出会う。私の歌に合わせてくれるかと問う |
ミュラーの『冬の旅』
題 名 |
印 |
詩 の 内 容 |
01. Gute Nacht おやすみ |
○ |
結婚まで約束した恋人のところを去る |
02. Die Wetterfahne 風見鶏 |
○ |
心変わりした恋人は金持ちの花嫁になる |
03. Gefrorne Tranen 凍った涙 |
△ |
冷めた涙に気付く |
04. Erstarrung 凍てつく野 |
○ |
恋人と緑の野を歩いた跡を探す |
05. Der Lindenbaum 菩提樹 |
○ |
喜びも悲しみも分かち合った思い出の木の本を去る |
13. Die Post 郵便馬車 |
○ |
郵便馬車のラッパの音で恋人の町を想う |
06. Wasserflut あふれ流れる水 |
○ |
小川が涙を運び熱くたぎる所が恋人の家だ |
07. Auf dem Flusse 河の上で |
○ |
凍った河の上で恋人の名と日付を刻む |
08. Ruckblick 振り返り |
○ |
町に来た時と恋人を振り返りもう一度恋人の家の前に立ちたい |
14. Der greise Kopf 白髪 |
● |
老人になって棺に入るのを願う |
15. Die Krahe カラス |
● |
付きまとうカラスに墓までついてきて餌食にしろと言う |
16. Letzte Hoffnung 最後の希み |
● |
一枚の葉に希をかけるがその葉も落ちる |
|
|
|
17. Im Dorfe 村で |
● |
吠える犬。村人は欲深い夢を見るが自分は夢を見つくした |
18. Der sturmische Morgen 嵐の朝 |
● |
ちぎれ雲が流れる朝焼けの嵐の空は荒れた私の心だ |
19. Tauschung 惑わし |
○ |
明るく温かい家と恋人を見せてくれる惑わしにかかりたい |
20. Der Wegweiser 道しるべ |
● |
旅人の通らない道を探し誰も帰らない道を示す道しるべに出会う |
21. Das Wirtshaus 宿屋 |
● |
墓地に休もうとするが拒まれ再び旅を続ける |
09. Irrlicht 鬼火 |
● |
どの道でも目的地に着く、すべては鬼火の戯れ |
10. Rast 休み |
△ |
炭焼き小屋で寝るが休まることがない |
23. Die Nebensonnen 幻の太陽 |
◎ |
最良の2つの太陽は沈みもう1つも沈んでしまえ |
11. Fruhlingstraum 春の夢 |
○ |
春の夢と恋人と口づけの夢を見るが雄鶏の声と共に現実に戻る |
12. Einsamkeit 孤独 |
● |
明るく楽しげな人々や情景の中を惨めに一人歩く |
22. Mut 勇気 |
△ |
元気に歌い陽気に世の中へ行こう、神がいないなら神になろう |
24. Der Leiermann 辻音楽師 |
● |
無視されたライアー回しに出会う。私の歌に合わせてくれるかと問う |
こう並べてもほとんど変わらないと思う。特に14から21が固まっているのは「平準化」と言えるだろうか。
音楽のせいか明るい印象が強い「春の夢」が最後の方に来たのが特徴的だ。「郵便馬車」は恋人に関する詩で、前半にそれらを集めた意図はわかる。
「冬の旅 24の象徴の森へ」と「菩提樹はさざめく」の両方に、「幻の太陽」で旅は終わる、とある。どちらも、付けられた音楽ではなく、ミュラーのテキストをもとにして旅の終わりとしている。
ではミュラーの詩の順序に従うと、「幻の太陽」は終わりから5つ目に置かれているので、あと4つ「春の夢」「孤独」「勇気」「辻音楽師」がエピローグというか、結論というか、終着点になる。
検閲を逃れようと平準化するために、いったい物語の順序を変えるだろうか。疑問がさらにわく。
ミュラーの並べたこの物語を眺め続けている。いったいどうしてこのように並べたのか。
参考
①「冬の旅 24の象徴の森へ」(梅津時比古著 東京書籍 2007)
②「菩提樹はさざめく」(三宅幸夫著 春秋社 2004)
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18 「冬の旅」暗闇に灯る一点の光 (2008/3/1)
「冬の旅」はいったい何を表現しているのか。これが一貫する関心事だった。陰鬱な曲集なのか。希望を与える曲集なのか。失恋男の独白に終始するのか。生きる意味を伝えているのか。今回改めて「冬の旅」に向き合い、喜多尾道冬氏の言葉が初めて腑に落ちた。
いわば心の絶対零度の地帯にも、人間的な共感のよすがは見出される。その人間的なほのかなあたたかみといたわりがわずかでも感じられるかぎり、この世は生きるに値する。死の淵を覗き込んだ若者はここで生きる意味を見出したと言えるのだろうか。《冬の旅》の絶望と虚無の果てにひびき出ているのは、人間的な愛へのこのぎりぎりの信頼である。それが聴き手に安堵と救済のカタルシスをもたらすのだろう。(プレガルディエン&シュタイアーの「冬の旅」CD WPCS-5999 にある喜多尾道冬氏の解説から)
喜多尾氏は「生きる意味を見出したと言えるのだろうか」と自身も疑問形にしている。「生きる意味」は見出していないだろう。安堵と救済のカタルシスも言い過ぎではないか。でも「冬の旅」を聴くと必ず何か強い衝撃が残る。
若者は失恋をきっかけに旅に出る。いつしか恋人のことは闇に消え、希望も消え、命さえ消えてしまえと思い墓場に横たわる。よそ者を墓場さえ拒否し、死んで安らかに横たわることも出来なくなった。金持ちと乞食、生と死、希望と絶望、幸と不幸、理想と現実、意味と無意味、神がいようがいまいがそんなものはもうどうでも良くなった。「冬の旅」を通して若者は、すべてのものから無縁となり、どん底に到達した。
その極寒の真っ暗な世界に、若者はライアーの音を聴いたのだ。それはどんなに若者を揺り動かしたことか。同じような人間がいる!
何もかも失って、どうでもいいと思ったとき、たったひとつ「歌」があった。物悲しいライアーの響きと歌だったが、それはライアーマンと主人公が分かち合えるものだった。心底心をわかり合える者に出会うとき、生きることが出来る。
シューベルトはミュラーに出会った。どこに書いてあったか。「冬の旅」が第一部だけだと思っていたシューベルトは、その第2部を見つけ、最後の「辻音楽師」まで読んだとき、あっと声を出し、本を落としそうになったに違いない、というような文章を読んだ。きっとそうだったに違いないと思う。
ミュラーは元々社会批判のために「冬の旅」を書いたのかもしれない。ウィーン体制化の厳しい検閲のために隠喩を用いたのだ。恋人を自分の国と置き換え、主人公を自由主義思想と置き換える。
封建制、専制政治に反対し、経済活動に対する国家の干渉を廃し、自由な議会制度、思想、言論の自由、信教の自由を主張した自由主義の思想は国家によって厳しく抑えられていた。「三つの太陽」は恋人の二つの目、つまり愛する祖国であり、愛と希望の象徴、そして残る一つは自分自身の命であり自由主義思想だ。
我々自由主義を唱えた者は、皆、今ではライアーマンのようではないか。今はこんな冬の時代なんだ!みんな、これでいいのか!こう言いたかったのかも知れない。
シューベルトは不治の病を抱え、陰鬱なときを送っていただろう。そんなとき、きみには「歌」があると言われたのだ。それはなんという神々しい光だっただろう。
こんな素晴らしい目的地に行き着いた。さあ、「冬の旅」を聴こう!
参考
① クリストフ・プレガルディエン(テノール)アンドレアス・シュタイアー(ピアノ)録音1996年
TELDEC WPCS-5999
②「シューベルト」(喜多尾道冬著 朝日選書584 1997年)
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19 「冬の旅」もう一つの解釈 (2008/4/2)
「冬の旅」を心から愛する皆さんはもうトレーケルの新譜を手にしただろうか。昨夜このCDを聴きながら何気なく英語の解説に目を通していた。最後のパラグラフに来たとき、思わず息を呑んだ。そして、しばらく間凍りついてしまった。それは今までの希望的解釈を根底から覆してしまうものだった。
ご存じの方も多いだろうが、昔のTVドラマでトワイラトゾーン(ミステリーゾーン)というのがあった。DVDが以前出たので買っていたが、残念ながらシリーズの最後までは刊行されなかった。その第1巻に「死神の訪れ(Nothiing in the Dark)」というストーリーが含まれている。こういうものだ。
「死神の訪れ(Nothiing in the Dark)」
一人の老婦人が取り壊し寸前のアパートの一室で暮らしている。普通の人間の姿をした死神が、人を死に追いやるのを何度か見てきて恐怖を抱いている。そのため誰も自分の部屋に入れようとしない。
雪降る寒いある日、ドアの前で警官が打たれ、犯人が逃走した。警官は老婦人に助けを求め、老婦人はしぶしぶ部屋の中に入れる。介抱していると、その警官がとてもやさしく、信頼できそうで打ち解けるようになる。するとアパートの解体屋がやってきて、あと1時間で解体が始まるから出て行くようにと告げる。新しくするためには、古いのを壊さないといけないのだと説得するが、老婦人は耳を貸さない。不思議なことに解体屋は、警官が寝ていることに全く気付かないのだ。
解体屋が出て行くと、警官にその不思議を伝える。警官は、壁にある鏡を指差す。そこには横たわっているはずの警官の姿はなく、ただソファーが映し出されているだけ。警官は、順番が来たのだ、新しい旅に出ましょうと優しく誘う。差し出されたその手を握って、怖いから死にたくない、でももう新しい旅が始まるのねと言う。警官は、もう始まっていますよ、ほら、とベッドを指差す。振り返った老婦人は、ベッドで静かに眠る自分の姿を見、優しい警官と一緒にドアから出て行く。
トワイライトゾーンは、白黒ながら全く素晴らしいストーリーと演出で感動を呼ぶ。ぜひ、全編をDVD化してもらいたいものだ。
さて、トレーケルの「冬の旅」の解説に戻る。24曲目「辻音楽師」について最後にこう書かれている。
ため息をつくような装飾音に導かれた五度が支配する。ダイナミックはモノトーンで表現はとてもおとなしい。ここではもはや何も動かない、すべてが空で何もない。長調と短調は五度の中に溶け込み、― 同時に今の今まで劇的にとても重要だった夢と現実の相違が溶けてしまっている。なぜなら、死の顔の前ではすべてのものが失われてしまうからだ:シューベルトの設定では、ハーディーガーディーを弾く男は死にほかならない。「風変わりな老人よ、君と一緒に行こうか。僕の歌に合わせてハーディーガーディーを弾いてくれるかい。」と放浪者は尋ねる。歌は五度の高い音でぱったりと終わる。― 問いは虚無の中に響き渡るのだ。(CD OEHMS OC 810 のMarco Frei氏による解説から)
つまり、この辻音楽師を死と捉えているのだ。まるでムソルグスキーの「死の歌と踊り」に出てくるあの死、死神!ムソルグスキーでは死は威厳を持ったキャラクターとして登場するが、ここでは老人の姿で主人公に何も話しかけず、ただただライアーを回しながらこちらに来るのを待っている。
この終曲に希望的展望が含まれていると解釈すると、この希望のない音楽の終わり方がどうしても納得できなかった。ところが、驚くことに辻音楽師を死の導き手と捉えると、一連の詩とこの音楽の終わり方の意味が通ってしまうのだ。「宿」で主人公は墓場で安楽に葬られることを望むが拒否され、とうとう終曲に来て辻音楽師という死神に出会う。「辻音楽師」の世界は、もう死の世界の光景、音楽にほかならないような気がしてくる。
そう言えばこの老音楽師は、独り厳寒の中、裸足で、犬に吠えられ、なるがまま、ライアーを回している。とても尋常の人間に思えない。
死と共に歌う… 深い雪の中、意識が朦朧としてくる もう夢も現実もない … 野垂れ死に…
恐ろしい結末で終わることになる。ああ、なんてことだ!
参考
① CD: winterreise D 911 op.89 Roman Trekel (baritone) Oliver Pohl (piano) rec. 2007 OEHMS OC 810
② DVD: The TWILIGHT ZONE Vol.1 米1962日1964放送 日本コロンビア株式会社 COBM - 70101
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20 「冬の旅」死神としてのライアーマン (2008/4/3)
ハイペリオン・レーベルで刊行されたグレアム・ジョンソンによるシューベルト歌曲全集の「冬の旅」を参照してみた。歌手はマティアス・ゲルネを起用している。ジョンソンはピアニストとして偉業を行ったが、解説も自身で書いていて、詳しく素晴らしいものだ。冬の旅はその解説に111ページを使っている。とても全部はすぐには読み解けないが、第24曲「辻音楽師」のところと「あとがき」を参照してみた。もう、ここに死神としてのライアーマンのことが載っているではないか。105ページの下。
骸骨の姿をした死は、中世の像の中でときどきハーディーガーディーを弾く姿で描かれている。そしてライアーマンが、死の姿である死神(Freund Hain)としてしばしば受け取られていることは意外なことではない。
シューベルトも辻音楽師を死神として見ていたのだ。だからあのような不気味なハーディーガーディーの響きが支配する荒涼とする音楽になった。ちっとも知らなかった。また「冬の旅」を最初から考え直さなければならなくなった。
参考
CD WINTERREISE Matthias Goerne(bariton) Graham Johnson(pf) rec.1996 hyperion CDJ33030