サティ 花たち Les fleurs / Satie

エリック・サティ Erik Satie (1866-1925)

別の3つの歌曲 Trois Autres Mélodies
3. 花たち Les fleurs (1868)
(text: コンタミーヌ・ド・ラトゥール  Contamine de Latour)

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花たち

Que j'aime à vous voir, belles fleurs

美しい花たちよ、きみたちを見るのがどんなに楽しみなことだろう

À l'aube entr'ouvrir vos corolles

夜明けに花冠を開くとき

Quand Iris vous fait de ses pleurs

イーリス(虹の女神)がきみたちに涙を作るときの

De transparentes auréoles

その透き通った後光といったら

vous savez seules dans nos cœurs

きみたちはたった一つの創造物

évoquer une tendre image

ぼくらの心に優しいイメージを呼び起こしてくれる

Et par vos suaves couleurs

その柔らかい色で

Vous nous partez un doux langage

ぼくらに甘い言葉で話しかける

Aussi messagères d'amour

だから愛の使者よ、

Je vous demande avec tristesse

悲しみをもって尋ねる

Pourquoi le sort en un seul jour

たった1日で運命はなぜ

Vous arrache à notre tendresse.

ぼくらの優しさからきみたちを引き離してしまうのかを

(ファルクとシュライヤーマッハーのCD英訳から)

 

サティの落ち着いたいい曲だ。今のところ16人の歌手による演奏を聴いた。意外と多くの録音があるのに驚いた。ファルクとシュライヤーマッハーの演奏はアップされていないようだ。

 サティ年表  close 

サティ年表と歌曲

1866年(0歳)

五月一七日エリック・アルフレッド・レスリー・サティ、オンフルール(ノルマンディー河口の町)に生る。父アルフレッドはノルマンディ1人。母ジェーン・レスリー・アントンはロンドン生れのスコットランド人。サティの祖父も曽祖も船舶仲介人や船長として海に関係があり、父も初めは船舶仲介人であった。

 

1867年(1歳)

妹オルガ生る。

 

1869年(3歳)

弟コンラッド生る。

 

1870年(4歳)

父アルフレッド、仲介の職を売り、一家を率いてパリに出る。

 

1872年(6歲)

母ジェーン・レスリー死す。オンフルールの両親の元に子供たちを預け、父アルフレッド、外国を旅行しながら学究生活に入る。六歳から一二歳までオンフルールの学校に通う。この間、父の弟アドリアンの風変りで空想的な性格の影響を受ける。

 

1876年(10歳)

オンフルールの聖カトリーヌ教会のオルガニスト、ヴィノにピアノを習い始める。

 

1878年(12度)

父アルフレッド、子供たちをパリに連れていく。

 

1879年(13歲)

父アルフレッド、ピアノ教師ユージェニー・ベルネッチと再婚。両親共エリックの音楽教育に大いなる熱意を示す。コンセルヴァトアールに入学。ここの雰囲気を嫌い、多くの時間を読書に当てるようになる。

 

1885年(19歳)

処女作(作品番号は62)ー「ヴァルス・バレー」及び「ファンテジー・ヴァルス」

 

1886年(20歳)

"ムッシュ・ル・ポーヴル"とあだ名され、終日ノートルダムや国立図書館でゴシック芸術の研究に没頭する。作品ーコンタミン・ド・ラトゥールの詩による歌曲「天使」「花」「シルヴィ」(父アルフレッドにより出版)「四つのオジーヴ」一一月志願兵としてアラスに勤務(第33歩兵部隊)

1886年の3つの歌曲(第1曲 天使たち、第2曲 エレジー、第3曲 シルヴィ)

1887年(21歳)

兵営から逃れるために自ら気管支炎を招く。回復期に読書、フローベル、ペラダンに傾倒。一一月の除隊後、コンセルヴァトアールには戻らず、モンマルトルの常連となる。キャバレ"黒猫"での交友ーアルフォンス・アレ、ジョルジュ・オーリオル、モーリス・ドネ、タンシャン、ジューイ作品ー「三つのサラバンド」

シャンソン

1888年(22歳)

"黒猫"の第二ピアニストとなる。家族と別れコンドルセ通りに部屋を借りる。作品/「三つのジムノペディ」

 

1889年(23歳)

コルトー通りに移る。

 

1890年(24歲)

"バラ十字会"の教祖ジョセファン・ペラダンと会う。"バラ十字会"所属の作曲家となる。作品/「三つのグノシェンヌ」

 

1891年(25歲)

黒猫"を去り"オーベルジュ・デュ・クルー=のピアニストとなる。そこでドビュッシーと出逢う。(三〇年間の友情)作品ー「星の息子のための三つのプレリュード」

 

1892年(26歳)

フランス学士院に立候補(エルネスト・ギローの空席)。作品「バラ十字会の三つの鐘」

 

1893年(27歳)

バラ十字会を脱退し、彼自身"救世主イエスの、芸術の大本山である教会"を創立し、九五年まで新聞"教会の記録帳"を発行。作品「四つのプレリュード」「ゴート人の踊り」

 

1894年(28歳)

フランス学士院に立候補(グノーの空席)。ジュール・ボアとの交友。作品「天国の英雄的門へのプレリュード(ジュール・ボアの秘教的ドラマのための)」

 

1895年(29歳)

作品一「貧しき人々のミサ」

 

1896年(30歳)

フランス学士院に立候補(アンブロアーズ・トマの空席)。

 

1897年(31歳)

作品ー「冷たい小品」

 

1898年(32歳)

モンマルトルを離れ、アルクイユに住む(死の直前まで)。リヴェルヴェット・ジェントルマン"と呼ばれ、貧困の時代が続く。

 

1900年(34歲)

モンマルトルのシャソソン歌手ヴァンサン・イスパやポーレット・ダルティのためにシャンソンを作曲。作品ー「やさしく」「おまえが欲しい」「金の粉」「アンピール座の女神」

ジュ・トゥ・ヴー
乗合バス
エリゼ宮の晩餐会
男寡

1902年(36歲)

 

やさしく

1903年(37歲)

週に一度はドビュッシーを訪れ、そこでのみ安らぎを得る。作品「梨の形をした三つの小品」をドビュッーに捧げる。

 

1904年(38歲)

 

休日の小さなコレクション
エンパイア劇場のプリマドンナ
私は友人がいた
良い動き
柔らかさは忘れて

1905年(39歳)

スコラ・カントルムに入学。三年間ルーセルとダンディに師事。

歌詞のない3つの歌曲(第1曲 ランブイエ、第2曲 鳥たち、第3曲 マリエンバート)

1906年(40歳)

作品一「パッサカリア」「タピスリーのプレリュード」

お医者さんのところで
いいとも、ショショット
中世の歌

1908年(42歳)

”トレ・ビアン"の免状を手にスコラ卒業。作品ー「不愉快な概要」

 

1909年(43歳)

アルクイユで"平徒救済会"を創設し、子供たちのために色々な集会や催しを行う。七月四日、知事より"教育功労勲章"を授けられる。新聞"アルクイユ・カシャンの将来"に寄稿。

シャツ

1911年(45歳)

S・M・I (現代音楽協会)の音楽会においてラヴェル、サティの作品のいくつかを演奏。国民音楽協会でドビュッシー、「ジムノペディ、一番、三番」(九七年に彼自身オーケストラに編曲)を指揮。この頃、初期の作品、ルアール・ルロール社から出版。

 

1912年(46歳)

一三年にかけ、"ルヴュS・M・I"に「ある健忘患者の回想録」を連載。サティの下に集まる若い仲間たち(サティスト)、彼に"音楽家たちのプリンス"の称号を与える。作品「(犬のための)ぶよぶよした真のプレリュード」

 

1913年(47歲)

作品一「自動記述」「乾いた胎児」「木製の太った小父さんの粗描とその媚態」「あらゆる方向に廻された章節」「メデューサの罠」

 

1914年(48旅)

作品」「スポーツと遊戯」「世紀的な時間と瞬間的な時間」「気むずかしい気取り屋の三つの上品なワルツ」「三つの愛の詩」(サティの詩による)

3つの恋愛詩(第1曲 僕は砂粒でしかないけれど、第2曲 生まれつきの禿、第3曲 あなたのアクセサリーは隠れている)

1915年(49歲)

コクトーと知り合い、協作(バレェ「パラード」)の申し出を受ける。作品ー「最後から二番目の思想」

 

1916年(50歳)

作品ー三つの歌曲「ダフェネオ」「青銅の像」「帽子屋」

3つの歌曲(第1曲 ブロンズの彫像、第2曲 ダフェネオ (伊達男)、第3曲 帽子屋)

1917年(51歳)

五月一八日シャトレ座にて「パラード(一幕物の現実主義的バレェ)」上演。台本=コクトー、デュール=ピカソ、振付け=マッシーヌ、監督=ディアギレフ、指揮=アンセルメ。大スキャンダルとなる。サティの下に若い音楽家達が集まり"新しき青年たち"結成ーオーリック、ルイ・デュレー、オネゲル、タイュフェール。ドビュッシーとの友情の終幕。

 

1918年(52歳)

ドビュッシー死去。コクトー、『雄鶏とアルルカン』で、サティを新しい美学の大司祭に祭り上げる。作品/「ソクラテス(シンフォニック・ドラマ)」

 

1919年(53歳)

"若き青年たち"の四人にミョー、プーランク、リカルド・ヴィニェス、デルグランジュ、ピエール・ベルタン等が加わり、ユイゲンス通りのアトリエでしばしば音楽会を催す。作品

 

1920年(54歳)

=六人組"誕生ーオーリック、デュレイ、オネゲル、タイユフェール、ミヨー、プーランク。コクトー、雑誌「おんどり」を創刊。サティも筆をふるう。一月国民音楽協会の音楽会で「ソクラテス」初演。三月・バルバザンジュ画廊にて、マックス・ジャコブの作品のための「家具音楽」演奏。作品「組み立てられた三つの小品」「メヌエット」「風変りな美女」「四つの小さな歌曲」

4つのささやかなメロディ

1921年(55歳)

五月「メデューサの罠」、ピエール・ベルタンの演出により初演。

 

1923年(57歳)

"アルクィユ楽派"創立ーアンリ・クリケ・プレィエル、ロジェ・デゾルミエール、マキシム・ジャコブ、アンリ・ソオゲ。モンパルナスで、ピカビアやデュシャンと交友。ダダの雑誌「391」に執筆。作品一歌曲集「浮沈人形」(レオン・ポール・フアルグの詩)

潜水人形(第1曲 ねずみの歌、第2曲 憂鬱、第3曲 アメリカ人の娼婦、第4曲 詩人の歌、第5曲 猫のシャンソン)

1924年(58歳)

六月一五日「メルキュール (三幕の造形的ポーズ)」シガール座にて上演。デュール=ピカソ、振付け=マッシーヌ11月二九日「休演(二幕の刹那主義的バレエ)」シャンゼリゼ劇場にて上演。台本とデコール=ピカビア、振付け=ジャン・ボルラン。幕間にルネ・クレールの映画「幕間」(これも音楽サティ)上演。

 

1925年(59歳)

肋膜炎を患いサン・ジョセフ病院に入院。七月一日、没す。

 

(ジャン・コクトー「エリック・サティ」深夜叢書の中島晴子氏による年表とウィキペディア「サティ楽曲一覧」を参考にした)

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diary 2024-12-1(日) 月齢 29.6 新月 晴れ
クイケンのバッハ・カンタータBWV 91、57、151、122、マーラー・嘆きの歌全曲をコルネリウス・マイスターの指揮で、バッハ・オルガン曲集(1)のリュプザムでランダムBで24曲聴く。サティの「花たち」をアップ。

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